アメリカでホームレスとアートかハンバーガー (17) 恥か罪か運命か
ホームレスになって今までで一番辛かったことは何か――。私はこの質問を、折に触れて投げかけてきた。もっとも多いのは、毎日シャワーを浴びられないこと。つまり、清潔を保つことである。
では、シャワーをいつ、どこで浴びるのかと聞くと、教会や公共の支援施設などと並んで、友人の家と答える人が複数いたのには驚かされた。ホームレスの友人はホームレスで、その世界は閉じているものだとばかり思っていたからだ。
ホームレスの友人が遊びに来て、談笑してシャワーを浴びて帰る。そんなシチュエーションを想像するのは難しい。あるいは、自分がホームレスの身の上になったとしたら、とても一般人とは付き合える気がしない。
誰でも多かれ少なかれプライドを持って生きている。自分がホームレスであることを他人に知られるほど辛いことはないだろう。かつて普通に暮らしていた頃の知人なんかに会った日には、恥辱で憤死しかねない。だからこそ、可能な限り人目を避け、目立たないよう隠れて暮らす。
それがアメリカのホームレスは、人通りの多い路上に軒を連ねて住んでいる。その前で、食べたり飲んだり開けっぴろげにやっている。日本の何倍もの土地を持つアメリカで、隠れる場所がないわけがない。人に見られることに対する抵抗感に差があることは明らかである。
自らを恥じて身を隠すという感覚は、日本人であれば誰でも共有できるものだろう。自分がどう思うかではなく、他人にどう思われるかということこそが、日本人のアイデンティティの根幹をなすからである。
別章でも引き合いに出したが、米国の人類学者ベネディクトが指摘したのは、まさにこの恥の観念である。仮に「ホームレスもいい人生経験になる」などとポジティブにとらえようとしても、社会的な評価は「ホームレス=最底辺」だと断定する、否、断定されることを知っている。他者の評価がイコールで自己評価となるのだから、前向きになれようはずもない。
恥を発生させる装置としては、実在の他者よりも架空の他者の方がよほど強力である。それは神の偏在に似て、逃げも隠れもできず、地球の裏側まで追いかけてくる。
個々が内部に架空の他者を持ち、その集合として世間というものを想定する。この世間の目は、ホームレスであることを許容しない。「生きて虜囚の恥かしめを受けず」というかつての戦陣訓は、いまだ日本人の精神に根深く残っているように見える。
「ホームレスになってまで生きるのはみっともない」――そのような考え方は日本人にとって普通で、違和感がない。
先の大戦において、アメリカ人が平気で敵の捕虜になって生きているのを見て、およそ信じられない厚顔無恥だと呆れた戦中の日本人を、本当に現代の我々は滑稽だと笑えるのだろうか。
実際、アメリカのホームレスは公衆の面前に堂々と立って恥ずかしげもなく物乞いをしているが、これは日本人にとっては衝撃的である。かつての捕虜に対する考え方と重なって見えると言ったら言い過ぎだろうか。
日本の自殺率はここ30年以上、毎年2万~3万人の間を推移している。その理由の最たるものは健康問題で、その次に経済・生活問題が続く。自殺大国と言われて久しいこの現実を、こう考えることはできないだろうか。
いよいよホームレスになる他なくなった人のうち、少なくない割合の人々が、自ら命を絶っているのではないかと。もちろんこれは想像の域を出ない。ただ、こう考えると、彼我におけるホームレス数の隔たりがある程度説明できるように思うのだが、どうだろう。
日本の史実として、戦闘不能となったり敵の捕虜になってしまったりした場合には、この恥のために、万単位の人間が手榴弾や銃、刀を用いて、あるいは舌を噛み切って自ら命を絶っている。これは「昔の日本人」だろうか。今の日本人は違うのだろうか。
アメリカ人にも恥という感覚はある。Shame on you(恥を知れ)という言葉があるように、互いに恥という観念を共有してもいる。しかし、恥を感じる根本が異なる。日本人の恥の出どころは、どこまで深堀りしても他者の中にしかない。
つまり、もしも世界に自分一人きりだとすれば、何がどうなろうと恥ずかしがりようがないのである。こんなところを見られたら、人様にこう思われるに違いないという想定が我々を恥じ入らせるのであって、自身の価値基準によって恥じるのではない。他者の目は善悪のモノサシとしても機能し、バレなければいいという考え方は、特に日本において顕著なものである。
しかしアメリカをはじめ西洋における他者の目は、日本と比較すればさほど大きな力を持たない。価値基準の源泉は神であって、人間ではないからだ。神はどこにでも存在し、いついかなる時も自分を見ている。そこでは神の掟が行動指針となり、善悪の基準となる。気分でものを言う不完全な他者がどう思うかではなく、神にどう思われるかがもっとも重要なのである。
このことについて、鴻上尚史はその著書『「空気」を読んでも従わない』 の中で明快な説明をしている。「西洋における神は、日本における世間なのだ」と。日本人は世間に逆らうことを極度に恐れる。何か間違って村八分にでもされれば生きていけないと思う。
ゆえに世間のルールを絶対として従う。日本人にとって、神がどのような力を持つのかをイメージするのは容易ではないが、我々にとっての世間に置き換えるとたちまち了解されるのではないだろうか。
冒頭で紹介した銃撃されたラドに、私は聞いた。ホームレスにまでなってなぜ神を信じられるのか? 純粋に疑問だった。しかし、それは愚問だった。考えてもみてほしい。日本では、ほとんどすべてのホームレスは実に律儀に世間のルールを固守している。
日本の世間において「人に迷惑をかけないこと」以上の金科玉条はない。ホームレスの生活を思えば、いっそヤケになってそこらを荒らし回ったって不思議ではない。
にも関わらず、彼らは人に迷惑をかけない。彼らの多くは人目につかない深夜なんかを選んで買い物をしたり、ゴミを漁ったり、廃品を集めたり、しかし決して散らかしたままにして「人に迷惑をかける」ようなことをしない。
実際、この観点でアメリカのホームレスを見てみると、彼らはまったくもって人様(西洋には世間というものは存在しない)に迷惑をかけることをいとわないようだ。ゴミ箱を漁れば散らかすし、空き缶や空き瓶、食べ物の容器や食べ残しも、適当にそこら中に放り投げて平気である。
スラム街でなくとも、レストランの横の芝生や、商店の真ん前の歩道で行き倒れのように寝ているホームレスも珍しくない。そしてスーパーやコンビニにも堂々と入って悪びれるところがない。
なぜそんなことができるのだろうか。逆に、なぜ日本にはそんなホームレスがいないのだろうか。あえて説明すれば、通りを汚せば近隣住民や通行人に迷惑がかかるし、レストランの横なんかで寝られれば営業妨害もいいところで、商店の前だって迷惑この上ない。
子供を連れて夕食の買い物をしている横にホームレスが立っていたら、慌てて店を出ていく人もいるに違いない。まったくもって迷惑千万である。日本人なら「当たり前だ」としか言わないだろう。
ふつう、当然、誰でもわかる。日本人の口癖とも言えるが、それらに普遍性など欠片もなく、あくまでも「日本人なら」という条件つきのものに過ぎない。アメリカには暗黙の了解がほとんどない。
だからひとつひとつ、はっきり理由を明示し、だからダメなんだと禁止しなければ通じない。アメリカでも日本でも、ホームレスの入店禁止などと掲示している店はない。アメリカのホームレスは店に入ってくる。日本のホームレスは店に入ってこない。そう、世間のルールに従えば、「自然とそうなる」のである。
アメリカ人が従うのは世間ではなく神である。アメリカはイギリスからやってきたプロテスタントの一団、ピルグリム・ファーザーズによって建国された国である。神はすべてを受け入れる。迷惑とかそんな考えは一切ない。どんなにみすぼらしく絶望的な状況に陥っても、神は決して見捨てることがない。あなたの蛮行もよこしまな考えも、すべて受け入れ、ひとたび悔い改めれば早晩許しと救いが与えられる。
あるホームレスの言葉を思い出す。これは神から与えられた試練なんだと。自分は今までロクなことをしてこなかった。だからより良い人間になるために、今はトレーニングをしているのだと、彼は大真面目に語るのだった。罪の文化である西洋では、身に降りかかった不幸を己の罪に対する神からの罰だと解釈しているのだ。しかし、そのような考え方は、あまり日本人には馴染みがない。
日本のホームレスに取材した人々のドキュメントを読むと、たいていは我が身の「不運」を嘆いている。風土的に天災の頻発する日本では、古来より運命に身を任せる傾向が強い。侵略者に蹂躙されたなら憤ることもできようが、台風や地震に文句を言ってもしょうがない。対照的に、西洋で起こる災難のほとんどは、侵略戦争をはじめ人災がほとんどである。運命と諦める前に武器をとって戦うのが道理なのだ。
そう考えると、アメリカのホームレスが持つ「HELP」というサインボードがひとつの武器に見えてくる。人目を忍んで空き缶やペットボトル、雑誌を拾って生計を立てるホームレスが多い日本に比べると、彼らはいっそ清々しいほど能動的で積極的である。
どちらが良いとか悪いとか言うのではない。いみじくもニーチェが言ったように、『乞食は一掃すべきである。けだし何か恵むのもしゃくにさわるし、何もやらないのも、しゃくにさわるから』――私の心持ちはこれに尽きる。
とにかくは、どこまで行っても彼らはアメリカ人で、我々もまたどこまで行っても日本人でしかあり得ないということだけは確かである。
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*本シリーズは商業出版を前提に書き下ろしたものです。現在、出版してくださる出版社様を募集しております。ご興味をお持ちの方は、info@tomonishintaku.com までお気軽にご連絡ください。アメリカでホームレスとアートかハンバーガー 全30回(予定)- (1) 銃撃されたラド
- (2) アメリカの普通
- (3) DNAの価値
- (4) ホームありの母親とホームレスの娘
- (5) 見えない境界線
- (6) 働くホームレス
- (7) 働かないホームレス
- (8) 古き良きアメリカンドリームの現実
- (9) 単身ロサンゼルスに移住して
- (10) 奴隷ビザの分際
- (11) アメリカの現実をアートに
- (12) 古今東西、臭いものには蓋
- (13) 蓋の蓋の蓋
- (14) 涙を流したヘイロー
- (15) ホームレスのリアル
- (16) 55万2,830人のホームレス
- (17) 恥か罪か運命か

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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- 2025/06/18 更新 老いと定年の観察
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