アメリカでホームレスとアートかハンバーガー (5) 見えない境界線

私はかつて神奈川の多摩川沿い、登戸という街に住んでいた。河辺にはブルーシートの小屋が点在しており、たまにペットボトルや空き缶を満載した自転車とともにその小屋へ帰ってゆくホームレスを見かけた。私は都合十年近くその辺りに住み、土手を日常的にランニングしていたが、ついに彼らとの接点は一度もなかった。

彼らは私を見ようとしないし、私もまた努めて彼らを見ないようにしていた。それは一般人として典型的な反応だろう。昔からホームレスに関心があったわけでもない。私もまた一般大衆の一人に過ぎず、別世界のことと考えていた。彼らと我々とは暗黙の内に分断されていて、普通に暮らしていれば交わることがない。

ロサンゼルス国際空港、通称LAXに降り立ったのは、コロナ禍となる前年、2019年の3月の終わりのことだった。それはSKype面接だけで渡米が決まり、下見も何もなかった私にとって、初めてアメリカの地を踏んだ日であった。

まずは予約していたモーテルに向かうため、UBERを呼び、乗り込んだ。街並み、人々、喧噪、そのひとつひとつが、私の中にあったアメリカのイメージと小気味よく重なり、一致する。

だが、何度目かの信号待ちで、一人の男が近づいてきて、言った。「小銭をくれないか?」そのドライバーがいくらか渡すと、彼は後ろの車へ、また後ろの車へと回って行った。私の知らないアメリカとの邂逅だった。それがロサンゼルスでホームレスに出会った最初で、以降ホームレスを見ない日はない。

思えば、私の人生で初めてホームレスに出会ったのは、地元の広島では有名な「広島太郎」だろう。広島中心部の繁華街に出没するホームレスの男性だ。

全身にぬいぐるみをぶら下げた奇抜な見た目で、ゴミだか家財道具だかを満載した自転車を押している。だいたい手作りの看板を掲げていて、そこには「フジテレビでの広島太郎の出演料は180万円」など、よくわからないことがマジックで大書されている。とにかくは目立つので、高校に入って街中を訪れるようになると、よく見かけた。

その時分、円高とデフレの影響で、マクドナルドのハンバーガーは平日半額のキャンペーンをやっていた。130円の半額で65円という冗談みたいな値段だったから、友人と連れ立ってよく行ったものだ。

ある日、マクドナルドの二階の窓際に座った。そこからちょうど見下ろす位置に、彼がいた。相変わらずの薄汚れた服に、アンパンマンやプーさん、キティちゃんのぬいぐるみを山ほど取りつけて、それに埋もれるように座っていた。

あ、広島太郎だ。それ以上のことは思わなかった。ホームレスに対する問題意識はもちろん、かわいそうだとも助けてやらねばとも、そういう人道的なる一切のことを感じなかった。

なぜなら、私と彼との間には厳然たる境界線が自明のものとしてあって、私は彼を同じ人間だとは考えてもみなかった。要するにほとんど犬畜生を見るような目で、徳川の綱吉でもない私が何の憐れみも感じないのは道理だろう。

私と友人とは、それを尻目に65円のハンバーガーを何個食えるかという、しょうもないチャレンジをやっていて、そちらの方が私にとってよほどリアルな問題だった。

ロサンゼルスの近所のマクドナルドに行くと、ホームレスが一般客に混じってレジに並んでいる。私の後ろや前に、平然とホームレスが並ぶ。彼らは順番が来ると、くしゃくしゃになった一ドル札や小銭をばらばらと出して、コーヒーを買う。ハンバーガーを買う。ピクルスを抜いてくれとも言う。

店員も他の客も、何も言わない。眉もひそめなければ、顔色ひとつ変えない。そこには日本にあるような確からしい境界線が見えない。一般世間とホームレスの世界とは、重なり、溶け合って、ちょっと何かあれば、私があちらの方に、あちらが私の方にと、容易に往還可能な存在であることをいやでも喚起させられてしまう。

私は考え過ぎなのかもしれない。しかし普通の人と変わらず、日々報じられるニュース、虐待や事故、殺人や戦争を見ても、人の不幸は蜜の味とばかりに面白がることこそあれ、心を痛めることは滅多にない。それは、こちらとあちらとの間に、現実の上でも意識の上でも、十分な距離が確保されているからだろう。

だが、誰でも近所で物騒な事件があれば笑ってもいられまい。心配にもなる。他人事ではなくなるからだ。つまり、この地におけるホームレスの問題は、近所で起きている現在進行系の事案と同じであって、生活に直接影響を及ぼす。

西新宿の都庁あたりの高架下で、ホームレスがカセットコンロでインスタントラーメンを煮ているのを見たことがある。日本のホームレスは、たいてい人目につかない、暗く湿った場所に隠れるように住んでいる。そこは日常ではなく非日常に近い。

だから一般の生活と、ホームレスの生活とは重なることがない。そもそも滅多に見ない。だから東京に住んでいた頃の私は、彼らの存在を関係ないと切り捨てて、いや、切り捨てるも何も、問題意識のかけらさえ持つことなく、大多数の日本人と同じように気負わず生活できていたのである。

こちらではそうもいかない。給料日、少し高いレストランに行く。楽しく飲み食いしていると、窓からホームレスが見える。またかと思う。率直に言って、メシがまずくなる。こう言うと傲慢に聞こえるかもしれないが、それは普通の感情ではないだろうか。

想像してみてほしい。あなたが仕事で成果を出して、そのささやかなご褒美にと、おいしいものを食べている。その耳元で「あなたがそんな贅沢をしている間にも、いまだ世界では8億人以上が飢えで苦しんでいるんですよ!」などと言われる。マトモな神経の持ち主であれば、メシがまずくならないという人はいないのではないだろうか。それとこれとは別だと、文句の一つも言いたくなる。胸糞が悪いとはこのことだ。

私はロサンゼルスに移り住んで以来、ずっと胸糞が悪い。

そんなことが、年に2、3度あるという程度なら構わない。たとえば原爆投下の日や終戦記念日に、戦争について思いを致すのは意義のあることだ。しかし、年中戦争のことばかり考えて生きられる人がいるものか。そんな生活が快適だとは到底思えない。

しかしこのロサンゼルスにおけるホームレスの存在は、一年365日、来る日も来る日もごまかしがたい現実的問題を投げかけてきて、気の休まることがないと、私は思う。

その日々のフラストレーションを逆手にとって、現代美術作品に昇華しようと試みたのが「ONE BITE CHALLENGE」の出発点でもある。では、他の人、ロサンゼルスに長く住む人たちは、どのようにそのやるせない気持ちを処理しているのかと考えると、アメリカにおける寄付文化が、別の顔を持って浮かび上がってくる。

内閣府発表の2010年度寄付金国際比較によると、2007年における日本の寄付金総額は5910億円(名目GDP比0.11%)で、米国の寄付金総額は36兆2258億円(名目GDP比2.20%)となっている。着目すべきは個人寄付の割合で、日本は19.1%に対して米国は81.9%と圧倒的な開きがある。

アメリカの寄付金文化については、キリスト教の隣人愛の精神や税制の問題などがよく理由として挙げられるが、何より目のそらしようがない悲惨な現実が根底にあるのではないだろうか。

逆に、日本で寄付文化が根付かないのは、普段の生活の中に、目に見える形で、看過しがたいような状況が特にないからではないか。なんだかんだ言っても、日本の日常は実に平和で、穏やかなのは確かである

人を突き動かすのに、目の前の現実ほど強いものはない。実際、まだ30にもならない同僚のアメリカ人は、毎月銀行口座から一定額を自動引き落としで慈善団体へ寄付しているという。

先の寄付金額の統計を見れば、彼は決して稀有な志の高いアメリカ人というわけでもないだろう。彼はホームレスを見れば、かわいそうだと嘆息する。私も嘆息するのは同じである。アメリカは格差社会で、他人に対してドライだとも言われるが、個人レベルでは結局みな人の痛みのわかる人間なのだと思う。

ホームレスでさえ、私のバーガーチャレンジを誰がやるか(誰が10ドルをもらうかに等しい)といって揉めるような時には、意外なほど紳士的で、レディファーストで女性を優先したり、特にお金に困っている人に率先して譲ろうとするのである。

この世の中、どこまで行っても、たとえ今は檻の中にいる人であっても、救えない悪人というのは多くない。娑婆の人ならなおさらだろう。ホームレスを避けては通れない日常を生きる中で、ホームレスは社会のゴミだ、消え失せろと放言して平気な人や、気晴らしとばかりに彼らに攻撃を加えて嘲笑う人は、あくまでもごく少数と考えるべきだ。

それを裏付けるように、アメリカ人は、日本人の私には違和感を覚えるほどホームレスに施しをする。信号待ちの車に寄ってきたホームレスに金を渡すし、車に積んであった飲み物や食べ物をあげるし、ボランティア団体がホームレスの集落にどっさり食料を届ける場面なんかも珍しくない。

彼らはそうすることによって、助けを必要とする人々に、何もしていないわけではないという自分たちの胸の痛みを、良心のうずきを慰めているのではないだろうか。

一方のホームレスも心得たもので、ある金曜の夕暮れに出会ったホームレスのノーマンは言った。金曜の夜は一番の稼ぎ時なんだと。「金曜はみんなgenerous(気前がいい)だからね」と、いたずらっぽく笑った。

週末の夜ともなれば、家族や友人、恋人と楽しく過ごす人が大半だろう。自分の幸福と、彼らの不幸、その落差がもっとも顕著に感じられる日だとも言える。つまり、良心がもっとも動揺し、試される時だというわけだ。

そこに多少の宗教心と、日本人がたまに神社にお参りして賽銭を投げる程度の謙虚さがあればもう、なにがしかの金を出さずにはいられないのが人間だろう。

そんな人々の良心に訴えかけるメッセージを、ホームレスたちは日夜せっせとダンボールの切れ端に書きつけては、道路に立つ。「ホームレスを助けてください」という月並みなものから、「私には何もありません。神のご加護を」「私は昔のあなたの隣人です」、極めつけは「ホームレスを助けて徳を積もう!」。

現代のアメリカでは、かつての免罪符をホームレスが作って売るかのようだ。さすがのルターも批判に困って口ごもるに違いない。

アメリカでホームレスとアートかハンバーガー 全30回(予定) *本記事で制作した作品についてONE BITE CHALLENGEシリーズ
ONE BITE CHALLENGE AFTER CORONAVIRUS (COVID-19)シリーズ
新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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