アメリカでホームレスとアートかハンバーガー (11) アメリカの現実をアートに
2024/09/07
コンテンポラリーアート、現代美術とは何か。私もまだ完全にはわかっていない。だが少なくとも、いましがた出来上がったばかりの作品だからと言って、即、現代美術になるわけではない。
それは単なる「現在美術」とでも呼ぶべきものであって、時代を表す記号としての旧石器や縄文土器と同じ程度の意味合いしか持たない。
私の考えでは、現代美術作品として成立するためには、以下の三つの条件が必須である。
(1) 現代の状況に対する反応であること
(2) 批評性を持っていること
(3) 一定以上のクオリティがあること
中でも重要なのは(1)である。現代美術作品として制作した「ONE BITE CHALLENGE」シリーズも、そこを出発点としていることは言うまでもない。(2)もまた然りである。(3)に関しては鑑賞者の判断を仰ぐしかないが、おそらくクリアできるだろう。
近年、現代美術は一種のブームの様相を呈しており、その言葉自体は日本でも人口に膾炙している。しかしながら、現代美術として紹介される作品のうち、どれだけのものが本当に現代美術足りえているかと言えば、甚だ疑問である。
私見では、日本における現代美術の多くは現在美術でしかない。なぜなら、日本のアーティストの作る作品は、往々にして私小説的で、個人の経験や感情、喜怒哀楽をそのまま色や形にしただけのものが主流だからだ。つまり、現代美術の形式、ルールに則っていないのだから、どだい現代美術になるわけがないのである。
大いに誤解されているが、現代美術はなんでもありというものではない。自由に、感情の赴くままに作ればというものでもない。芸術は爆発だ! なんていう大衆向けのパフォーマンスをアートの本質と勘違いしてしまったのが、日本における現代美術の不幸である。
スポーツでもボードゲームでも、ルールのない世界はないのと同じで、現代美術にもルールがある。そのルールを知らないから、日本の現代美術はいつまで経っても世界の、特に欧米の現代美術のメインストリームに乗ることができない。
一番の問題は教育だろう。渡米して間もない頃、ロサンゼルス近郊の学校で、小学生の授業で書かれた絵の作品展を見たことがある。4、50人分が展示されていて、なぜか、それらはすべて無表情な人物が青や緑だけを使って描かれていた。
奇妙だと思ったが、説明書きを読んで納得した。ピカソの青の時代*の作風で描けという課題だったのである。
*ピカソは親友を自殺で失ったことをきっかけに、社会の底辺に生きる人々を青い色調で描くようになる。この時期のスタイルは「青の時代」と呼ばれる。
これは衝撃であった。なぜなら日本における美術教育の基本は、一言でいえば「自由にのびのび」だからである。まさか自由の国アメリカの美術教育が、かように不自由とも思われる「型」を与えているとはにわかには信じられなかった。しかし、この彼我の差こそが、そのまま現代美術界での影響力、存在感の差として現れているのだと確信した。
ほとんどの日本のアーティストの作品が国内だけの限定的な評価に留まるのは、才能がないからでも、技術がないからでもない。むしろ、恐るべき鬼才が少なくとも千人単位でいる。しかし、取り組む方向性が間違っているのである。
中国の故事を思い出す。
今、帰ってくる途中で、一人の男に会いましたが、車を北へ走らせながら、『楚の国に行くつもりだ』と申します。
『南の楚の国に行くのに、なぜ逆の北へ向かっているのか』と聞きますと、男は、『馬は飛びきり上等だ』と申します。
『良い馬かもしれんが、道を間違えている』、こう言いますと、『旅費もたっぷりある』と申します。
『そうかもしれんが、道を間違えている』、重ねて忠告しますと、男は、『いい御者がついている』と答えます。
こう条件が揃っていれば、ますます楚から遠ざかっていくだけです。
日本のアーティストの可能性を考えると、惜しいとしか言いようがない。とまれ、少なくとも先に挙げた3点を意識して実践すれば、どんな作品でもマトモな現代美術になり得る(それが傑作となるか駄作となるかはまた別の問題だ)。
いくらプライベートな事柄でも、その先には必ず人がいて、そして人の集合としての社会があり、世界がある。故に、今日あなたの身に起こった個人的な出来事も、見方を変えればいくらでも社会問題に接続できる。
たとえば、あなたは会社に行くのが辛く、人生に生きにくさを感じているとしよう。それを表現する時に一番やってはいけないのは、絵の具をびしゃーとかばしゃーとぶちまけて、無意味な色や形として吐き出してしまうことだ。あるいは自画像や、ペットの猫や犬に、狂気っぽい感情をこれでもかと盛っておどろおどろしく表す。
この手の作品こそ、凡百の日本のアーティストの十八番である。確かにそれは、あなたにとって偽りない真実の表現なのだろうが、他人には一切伝わらない。たとえあなたの親でもわかってあげられない。そもそも私はあなたではないし、他人はあなたにそれほど興味がないからだ。
だからこそ、社会問題に接続し、誰もが当事者となれるテーマ、自分ごととして受け取れる作品に変換してやる必要がある。難しくない。簡単な連想ゲームをすればいいだけだ。
「会社に行くのが辛い」→「人と接するのが苦痛だ」→「誰にも会いたくない」→「ひきこもるしかない」→「日本には300万人ものひきこもりがいる」
たったこれだけで、個人的な感情でも社会問題として提示できるのだ。実際、現代美術家の渡辺篤は、自身のひきこもり経験を《止まった部屋 動き出した家》という唯一無二の現代美術作品へと昇華させている。
ギャラリー内にコンクリート製の家を作り、その中で作家自身が一週間にわたり寝泊まりする。わずかな空気穴のみで完全に密閉された内部で、食事や用便のすべてを行う。
そして最後に、ひきこもりからの脱出、自身の魂の再生として、内部からノミで壁を壊し、外に這い出る。私はその瞬間に立ち会ったが、感動よりも、むせ返るような汗や糞便の入り混じった臭いの方を強烈に記憶している。
しかしそれこそ、ひきこもりが外に出ることのリアルで、その臭気は世間と彼との社会的な距離を如実に物語っている。もし仮に、彼が自身の感情や経験を、何の考えもなく壁でも殴るように絵や彫刻にぶつけただけだとすれば、決して現代美術にはなり得なかったろう。
現代美術とは、かつての美しい絵や優雅な彫刻などのように、わかりやすい美を競うものではない。むしろ現代美術では表面よりも目に見えない内部の「意味」を競うのである。
こんな作品もある。アパートの一室、中央にはバンジージャンプに使うようなバネがついたゴム紐が四本、壁の四隅からぶら下がっている。その中央の天井には、それを利用して何かが飛び出していったらしい大きな穴が空き、テーブルや床の上には瓦礫が散らばっている。
「部屋を壊して外に出る」という点においては、先の渡辺作品と似ている。だが、意味はまったく異なる。これは旧ソビエト連邦出身の美術家イリヤ・カバコフの《自分の部屋から宇宙に飛び出した男》という作品で、崩壊直前のソ連の閉塞感を表現しているのである。
極端な話、両者の作品を入れ替えたとしても、あまり違和感はない。しかし、意味(コンセプト)を入れ替えることはできない。意味は作家の生い立ち、思想、もっと存在自体と分かちがたく結びついており、切り離すことができない。
日本で生まれ育った渡辺がソビエトの閉塞感を取り上げても必然性がないし、カバコフがひきこもりを論じてもそれこそ「意味がない」。そう、現代美術においては、意味こそが作品の価値の本質を担っているのである。
なにはともあれ、現代美術は個人の内側に閉じるのではなく、社会に開かれている必要がある。いやしくも現代美術と冠する作品はすべて、なんらかの社会へのメッセージでなければならない。
しかし、そもそも日本人は社会へ物申すことを苦手とする。だからだろう、日本人は「個人的には」という枕言葉を好んで使う。ではその対義語は「公的には」になるのかと誰かが茶化していたが、確かに、個人的という表現は奇妙である。
日本人がこの言葉を頻繁に使うのは、他者との不用意な衝突を避けようとする心理からであろう。しかし原則的に、「個人的な現代美術」というのはあり得ない。社会的でなければ現代美術にはならないのだから当然だ。個人の便所であることと、公衆の便所であることが絶対に両立しないのと同じである。
だからと言って、個人的な、プライベートな問題を現代美術で表現できないわけでは決してない。何を隠そう、「ONE BITE CHALLENGE」シリーズとて、もとを辿ればごく個人的な問題から出発している。
前章で散々述べたが、職場への期待が裏切られたこと、ロサンゼルスの住環境の劣悪さ、アメリカに対する失望、これらのごく個人的なフラストレーションが私の中に積もり積もっていた。これが何よりも重要なのだ。この誰も共感などしてくれるはずもない個人的な怒り、苛立ち、不満、それこそが作品の原動力となったのである。
職場で得られるものは何もないとわかった以上、自然、プライベートな時間にこそ注力するようになる。ホームレスと毎日すれ違う環境は、それ自体ストレスであることは間違いないが、アートとして作品にすれば、私にとってプラスに、露骨な表現をすれば利益になる。そうすれば、アメリカそのものへの失望は、私にとって希望にさえなる。
そういう、いわばタダでは起きない貧乏根性が、私をしてホームレスへと向かわせたのである。ひょっとすると、現実に裏切られ、虐げられているという意味において、ホームレスたちにどこか心の底で共感を覚えているようなところもあったのかもしれない。
それからしばらく、考え続けた。ホームレスをどのように現代美術として「料理するか」ということを。ホームレスをテーマにすると決めて以降、ホームレスが単に不愉快な存在ではなくなった。彼らの意味や価値が反転したのである。
つまり、彼らは私にとっては大切なテーマで、俗な言い方をすれば彼らは「ネタ」、もっと言えば「メシの種」であるのだからそれも当然だろう(アートでハンバーガーのひとつも食えていないという現実はひとまず忘れてほしい)。
アメリカでホームレスとアートかハンバーガー 全30回(予定)- (1) 銃撃されたラド
- (2) アメリカの普通
- (3) DNAの価値
- (4) ホームありの母親とホームレスの娘
- (5) 見えない境界線
- (6) 働くホームレス
- (7) 働かないホームレス
- (8) 古き良きアメリカンドリームの現実
- (9) 単身ロサンゼルスに移住して
- (10) 奴隷ビザの分際
- (11) アメリカの現実をアートに
- (12) 古今東西、臭いものには蓋
- (13) 蓋の蓋の蓋
ONE BITE CHALLENGE AFTER CORONAVIRUS (COVID-19)シリーズ
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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2007年より開始。実体験に基づいたノンフィクション的なエッセイを執筆。アクセス数も途切れず年々微増。不定期更新。
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英語日記ブログ「Really Diary」
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音声ブログ「まだ、死んでない。」
2020年より開始。ロスのホームレスとのアートプロジェクトでYouTubeに動画をアップしたところ、知人にトークが面白いと言われたことをきっかけにスタート。その後、死ぬまで毎日更新することとし、コンテンツ自体を現代アートとして継続中。
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読書記録
2011年より開始。過去十年以上、幅広いジャンルの書籍を年間100冊以上読んでおり、読書家であることをアピールするために記録している。各記事は、自分のための備忘録程度の薄い内容。WEB関連の読書は合同会社シンタクのブログで記録中。
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