アメリカでホームレスとアートかハンバーガー (18) 芸術という刀を振りかざす
「やらない」――いかにもメキシコ人らしいヒゲにソンブレロをかぶったホームレスが言った。
私はなぜかと聞き返した。ハンバーガーを一口かじるだけで10ドルもらえるんだぞ? しかし彼はただNOと鋭くはねつけるように言い捨てると、車道の中央分離帯に戻っていった。そしてまた元のように「Homeless Hungry」という看板を掲げ、行き交う車に施しを乞うて歩くのだった。
正直、わけがわからなかった。アート云々を抜きにしても決して悪くない「仕事」であり「取り引き」ではないだろうか。しかし現実問題、このようなケースはままあった。控えめに考えても、彼/彼女らにとって単純に得になる、利益になるにも関わらず、バーガーチャレンジへの協力が断られるのである。
もちろん、私の意図が正しく理解されていない可能性はある。そして、あくまでもマイノリティの東洋人である私の意味不明な依頼を不審に思うのも無理のないところではあろう。しかし、誤解を恐れずに言えば、もはや失うものは何もないような彼らが断るのは解せなかった。ホームレスよりひどい状態などあるだろうか?
よく晴れた週末の昼下がりだった。彼は会社の近くにある大麻ショップの向かいの歩道の真ん中に、行き倒れのように倒れていた。身なりからしてホームレスに違いない。私は自転車の速度を徒歩くらいに落としていったん横を通り過ぎ、さり気なく彼の顔を確認した。歩道に頬を押しつけて死んだように眠っている。
いや、本当に死んでいるのかもしれない。私は足をついて、自転車をそろりそろりと後戻りさせた。そしてさも心配するかのように、顔をのぞき込んだ。見たことのない男だった。
私はハローと声をかけた。近づいたり、離れたりしながら、エクスキューズミー? サー? アーユーオーケー? 足元から、頭上から、くり返し呼びかけた。
ベタな映画のワンシーンのように、彼の脇にはウィスキーの小ビンが転がっていた。しかし微動だにしない。肩を揺すってみようかとさえ思ったが、至近距離になると触れるのをためらわせる臭いが鼻をつく。しつこく声をかけ続けたものの、ついに彼が起きることはなかった。
わざわざそのような「難易度の高い」ホームレスにまで手を出すようになったのには理由があった。バーガーチャレンジが50人も超えた頃には、自宅と会社の周囲5〜6キロの範囲、つまり自転車で行ける私の生活圏内で見かけるホームレスは、すでにバーガーチャレンジをやっているか、断られているかになっていたのだった。そして、慣れることはもちろんのこと、プロジェクト自体がRPGでいう経験値稼ぎのような作業的ルーティンと化していたから、行動はより大胆になっていた。
ホームレス本人以外の誰かが周囲にいようがお構いなく、ニューフェイスを見つけるが早いか声をかける。説明をして話がスムーズに進み、しかし途中でアンケートに記入する手が止まったり、ハンバーガーをかじる段になって躊躇したりする者がいると、私は「Why?」と、責めるような、難詰の調子になっているのが自分でもわかった。
それは明らかに、そもそもの作品コンセプト、「彼らと状況を共有することであるとともに、理解と受容とを示すことであり、綺麗事が許されるならば心を通わせることになるかもしれない。」に反するものだった。そう、私は私の芸術のために、彼らを利用している面が生じていたことを告白しなければならない。実際、X(旧Twitter)上で私の作品を「搾取」だと言って非難する人もあったが、決してわからないわけではないし、その通りなのかもしれない。
しかし、私の信念というか哲学として、「アートは何でもあり」だと思っている。アートは法を冒すことも厭わない。「そんなアートはアートじゃない」「そんなアートは必要ない」――この手の主張に対する一般の人の反駁は理解しているつもりだ。しかし芸術とは決してただ気持ちのいいお花畑のようなものではなく、国家の転覆さえも引き起こしうるものだということだけは揺るぎない事実なのだ。
たとえば、ナチスは「非ドイツ的」な芸術作品を「退廃芸術」と名付け、5000点以上の作品を押収し売却や焼却を行った。つまり、それらがナチスの立場を危うくする可能性のあることを、ヒトラーは知っていたのである。現代においては、そのような行為をしたヒトラーこそ非難の対象になっているが、あらゆる価値は時代とともに変転し、反転し、あるいは消滅してきたのである。私の行為を搾取だとするのは時期尚早ではないだろうか。
白昼、その男は歩道に立っている電信柱の陰に腰を落とし、ケツを丸出しにしていた。陰と言っても大の大人が電信柱に隠れられるわけもなく、ほぼ360度まる見えである。車通りの少ない郊外などではないれっきとした街中で、彼は糞便を垂れているところだった。
私は彼の背後50mくらいのところを自転車で走っていて、文字通り我が眼を疑った。しかし確かに現実で、思わず吹き出してしまった。笑いをこらえながら、ゆっくりと接近する。彼が一息ついたところを見計らって声をかける。彼は中腰でズボンを上げながらも、にこやかに応じた。
中国系の男性で、日本人だと言うと大げさに喜んだ。電柱のそばに、ティッシュのかぶさった彼の汚物が放置されている。バーガーチャレンジの説明を始めると、ケツを拭いたばかりの手で、説明書が入ったプラケースを触る。非常に汚い。ハンバーガーもこのままつかむのか。生理的な嫌悪感を覚える。しかしプロジェクトの遂行の方が重要だ。背に腹は変えられない。
ともかく彼は乗り気で、10ドルならやろうと言った。が、几帳面な性格らしく、説明書の小さな文字まで読み込んで、急に顔色を変えた。「だめだ、名前は出せない。」え? 何を言い出すのか。「名前を出さないならいい。」私は慌てて食い下がった。それでは意味がない。
彼の風貌は、今まで関わったホームレスとは一味違う感じで、流行りの言葉で言えば「映える」感じだった。私は別に本名でなくてもいい、偽名でもなんでもいいからと言いくるめようとしたが、彼は決然と拒否した。「10ドルがもらえなくて残念だ」と彼は言った。だったらやれよというツッコミが喉元までせり上がる。
公衆の面前で野糞を垂れて平然としているこの男に、個人情報もといプライバシーもクソもあるものか。彼が頑なに自身の個人情報にこだわることには違和感があった。
人に歴史ありという。彼にもさまざまな過去があるのだろう。何がよくて何がだめかという線引きは、個人の趣味嗜好と同じでどうしようもないものなのだろう。ある女性は写真を撮るのはNGだったが、インタビューだけなら(音声録音のみ)喜んでやりましょうと言った。彼女は日本人のもつステレオタイプ的な大柄のアメリカ女性で、大きなリヤカーを引いていた。
それを歩道の端に停め、縁石に腰を下ろしていた。「私は知り合いが多くて、誰かに見つかるといけないから」と、彼女は写真を断る理由を口にした。またある男性は、私がカメラを持っているのに気がつくと「写真はダメだ」と、話をする前から釘をさした。
それはどう考えても、肖像権等の権利意識からよりも、ごく個人的な、感覚的な理由によるもののように思われた。よくメディアが行う街中のインタビューでも、極端に避ける人は一定数いるものだ。だが、逆もまたしかりである。喜び勇んでテレビに映ろうとする者もいれば、図太く謝礼を要求する者さえいる。
その男は町外れの橋の下にいた。50メートルほどの用水路みたいな川にかかった橋で、両端が高くせり上がって土手になっている。そこは昼間でも橋の影が濃く落ちて、暗がりになっていた。彼はそこで自転車をひっくり返し、なにやら工具を操って修理していた。
私は橋の上から自転車に乗ったまま声を張り上げた。「私は芸術家です! プロジェクトに協力してくれませんか!」笑顔でオーケーというそぶりを見せたので、私は橋を渡り切って土手に降りていった。そこは行政の管理区域らしく、鍵付きの金網の扉がついているが、いつ誰が破ったものか、開け放たれている。
ようやくで彼のもとにたどり着くと、そこはさながら自転車屋のような趣で、欄干からは見えなかった工具や自転車が数台、やはり逆さになって置かれていた。私は改めて彼に挨拶した。そしていつものように説明すると、彼は快く受け入れてくれた。アンケートを書いてもらい、次いで彼がハンバーガーをかじる。その様子を2枚、3枚、4枚と角度を変えながら撮影していると、彼は「撮り過ぎだ!」と怒鳴った。
「そんなに撮るなら、50ドルは必要だ」今まで経験したことのない反応だったが、私はそんなには出せないと勢いで反論した。「テレビ局の人間だろ?」彼は言った。「それならちゃんと金はあるはずだ」彼は勘違いしているらしかった。
私は個人のしがないアーティストで、たいして金はない。すべて自分のポケットマネーでやっており、10ドルが精一杯であることを説明した。「スポンサーは誰だ?」彼はなおも執拗に問う。「スポンサーなんかいない!」私は呆れながら叫んだが、「おれたちみたいなホームレスを取材して、映画やドキュメンタリーを作りたがってる人間はいっぱいいるんだぜ? 50ドルでも安いくらいだ。」
彼が自分の「商品価値」を認識していることは明らかだった。あくまで私は、みんな10ドルで協力してもらっている。あなただけ上乗せすることはできないと頑張った。だが、結局、交渉は決裂した。作品の協力者としてカウントできない、写真のない不完全なアンケートと、中途半端にかじられたハンバーガーだけが残された。作品制作に使えないのは言うまでもなく、ハンバーガー代の5ドルちょっとを損したばかりである。私は歯噛みする気持ちでその場をあとにするしかなかった。
金銭的な報酬の多寡を理由にして断るケースというのは、それほど多くない。理由はもっと、彼らのポリシーや、プライドに関わるものではないか。つまり、たとえホームレスにまで堕ちたとて、わずかばかりの金で己を売ること、見世物にされることを拒否する心である。それは、いよいよ困窮して、花柳に身を沈めるか否かの選択に相通ずるものがあるのかもしれない。
ピザ屋の横の軒下に、老いた女性のホームレスが毛布にくるまって眠っていたことがある。私が何度か声をかけると、彼女は身体は起こさず、眼だけをうすく開いて私を見た。かまわず私は説明書の入ったプラケースを取り出し、そのまま話を進めた。
最後まで、彼女は何も言わずに聞いてくれた。感触は決して悪くなかった。説明を終え、やってくれるかどうか尋ねると「食べ物をくれないか」。だから、協力してくれればハンバーガーも食べられるし、お金ももらえるのだと私が言うと、彼女は小さく頭を振って、それ以上なにも言わず、また眼を閉じた。
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*本シリーズは商業出版を前提に書き下ろしたものです。現在、出版してくださる出版社様を募集しております。ご興味をお持ちの方は、info@tomonishintaku.com までお気軽にご連絡ください。アメリカでホームレスとアートかハンバーガー 全30回(予定)- (1) 銃撃されたラド
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- (3) DNAの価値
- (4) ホームありの母親とホームレスの娘
- (5) 見えない境界線
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- (8) 古き良きアメリカンドリームの現実
- (9) 単身ロサンゼルスに移住して
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- (12) 古今東西、臭いものには蓋
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- (18) 芸術という刀を振りかざす

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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- 2025/08/25 更新 もったいないのは金か食べものか
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