アメリカでホームレスとアートかハンバーガー (9) 単身ロサンゼルスに移住して

私には夢がある。歴史に名を刻むことだ。小学生の頃から漠然とそのような思いがあった。おそらく新宅睦仁(シンタクトモニ)という名前のせいだ。これは本名なのだが、名乗るたびに変わっていると言われる。

何でも吸収する素直な幼少期から、おまえは馬鹿だと言われ続ければ本当に馬鹿になるのと同じで、変わっていると言われれば当然変わり者になる。それで私は、自分は特別な人間で、歴史に残る人間なのだと考えるようになったらしい。

だからと言って特に勉強ができたわけでもない。足も遅かった。小学校中学校と、有り余るエネルギーをテレビゲームに費やした。高校は広島でも偏差値最底辺の男子校となった。

高校一年のころは、将来はゲームクリエイターになろうと思っていた。高校二年になり進路の話が出始めると、バイオテクノロジーの専門学校に行こうと考えた。歴史に名を刻むにはノーベル賞だと思ったのである。

いくつかパンフレットを取り寄せて、真剣に読み込んだ。とはいえ、相変わらず学習意欲も何もなく、成績は底辺の中でも底辺だった。にも関わらず、本気でノーベル賞を取る気でいた。

そんなある日、美術の授業で絵を描くことになった。一人のクラスメイトが机の上に立ち、彼を囲んで皆でスケッチする。私は昔から絵を描くのは好きで、得意でもあった。うまく描けたと思っていたところ、あるクラスメイトの作品に釘付けになった。

それは他とは明らかに違っていた。素人のように輪郭線を取るのではなく、陰影によって面と量感が捉えられ、ミケランジェロだかダ・ヴィンチだか、思わずひれ伏してしまいそうな風格があった。衝撃を受けた。すごい。かっこいい。純粋に感動して、率直に憧れた。

聞けば、彼の父親は美術大学の教授らしく、その影響で画塾に通っているということだった。彼みたいに描けるようになりたい。私はその日のうちに美術部に入った。帰宅部だったのが、放課後は毎日真面目にデッサンに取り組むようになった。

そのまま高校三年になり、進路を決める時期が訪れた。バイオテクノロジーのことなどすっかり忘れていた。しかも美大の受験は絵を描けばいいだけだと知って、決心は固まった。

勉強もせず絵を描くだけで大学に行けるなんて最高ではないか。周囲が曲がりなりにも数学だか英語だかをガリガリ勉強している最中、「絵を描くのが勉強」というのは自分を特別視するには十分で、非常な快感であった。なにより、偉大な画家になれば歴史に残る。歴史に名を刻めればなんでもよく、その方法にこだわりはなかった。

福岡にある美大に進み、一人暮らしを始めた。完全にひとりの時間を持って、私は生まれて初めて生きる意味というものを考えた。誰も知らない人間の真理に触れたような気がして、胸が震えた。

この歳でここまで深く考えられるとは、私はやはり歴史に残る人間だと思った。まったく誇らしい気持ちになってそのことを友人に話すと、そんなことは中学、なんなら小学校の時にすでに考えたことがあると言われた。しかし傷つくこともなく、私は大器晩成型なのだと理解して平気だった。

しかしいわゆる自分探しは、わかりやすく深みにはまっていった。それはきっと今なら中二病と呼ばれるものだろうが、私は大学二年だった。生きる意味がわからなくなった。意味がなければ生きていけないと思った。

夫婦喧嘩のひとつもない極めて安定した平和で平凡な家庭に育ち、家族関係も良好だったが、家族の存在理由も自明のものではなくなっていった。それで実家に「あなたたちのことをお金を送ってくるロボットのようにしか思えなくなりました」と、わざわざ手紙を送りつけたりした。

他方、恋愛をして、フラレて、思い詰めて、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったりもした。しっかり遺書も書いてパフォーマンスではなく本気だったが、翌日普通に目が覚めた。するとどうしたわけか至極すっきりして――カタルシスというやつだろう――なんなら晴れ晴れとして、以降、異常にポジティブな性格になった。文字通り一度死んで生まれ変わったのだと思う。

たいした大学でもないのに一年留年して、都合5年ほど大学に通った。そのほとんどは恋愛と絵を描くことに費やした。卒業後は画家になるべく、志を同じくする親友と上京した。

テレアポ、工場の夜勤、児童館で子供の世話、日雇いの解体作業、いわゆるフリーターをしながら絵を描き続けた。十年経ってもパッとしなかった。何度か諦めて、完全にやめたこともある。仕事の方は、紆余曲折あってIT企業に入り、正社員でWebデザイナーなんていう肩書きで働くようになっていた。

2011年、新宿の歌舞伎町にあるIT企業で働いている時、東日本大震災が起こった。社員は自分を含め3人しかいなかった。社長ともう1人の社員はプログロマーで、有能らしかったが2人ともひどく無口だった。ふつうのマンションの一室、十畳ほどのオフィスで、「おはようございます」と「お疲れ様でした」以外はすべてメールでのやりとりだった。

あの日、突然揺れ始めた時、それぞれ「アッ」とか「ヒッ」とか小さく発した他は無言で、机の下に潜り込んだ。死を覚悟した。しかし私も社長も同僚も死ななかった。

その後、思うところがあったらしい社長は、フレックスタイム制を導入すると言った、のではなくメールで通達した。この制度により、一日8時間働きさえすれば、早く出社して早く退社するというような、比較的自由な働き方ができるようになった。私はこれを何かに活かせないかと考えた。

三十路になり、何か新しいことをすべきではないかという人並みの危機感があった。それで思いついたのが、学校に通うことだった。選択肢は二つあった。一つは大学時代にデッサンを真面目にやらなかったから、もう一度絵を学び直すべく夜間コースのある美術大学に入る。もう一つは、毎日弁当を作ったり、人に振る舞ったりと料理が好きだったから、調理師専門学校に行く。

どちらにすべきか親友に相談した。彼は「今さらデッサンなんかやったっち、意味なかろうもん。そもそもデッサンとか、やろうと思えば一人でできるやろ。」と、博多弁で言った。

それもそうだと納得した私は、新宿にある調理師専門学校に入学した。貯金は一切なかったから、日本政策金融公庫で150万ほどの教育ローンを組んだ。

生活は一変した。朝は6時に起きる。1時間ほどかけて電車で通勤。8時前後に会社に着き、17時過ぎまで働く。その後、6時から9時や10時まで学校で、座学や調理実習などの授業を受ける。週5で、平日はすべてこのスケジュールだった。そんな日々が一年半続いた。

食べ物をモチーフにした作品を作り始めていた。急いで流し込むように食される牛丼を可視化した「牛丼の滝」シリーズや、キムチやハンバーガー等、各国を代表する食べ物を日本の国旗の日の丸に押し込め、日本人の島国根性を表現した「Japanize!」シリーズなど、短くない画家人生において今までにない反響があった。

今まで落選続きで雲の上だと諦めていた公募でも受賞した。展覧会のオープニングレセプションなどに顔を出せば、初対面でも名前を知ってくれている人も増えた。現代美術界で自分の認知度が上がっていくのを実感した。

いよいよ画家になる夢が叶うんだと思った。このまま行けば何かきっとすごいことが起こる。日毎に期待は膨らんでいった。しかし1年経っても、2年経っても、肝心の生活は、一切、なにひとつ変わらなかった。

相変わらず私はサラリーマンで、毎日決まった時間に電車に乗り、どこぞのどうでもいいWEBサイトを作ったり更新したりという、誰でもできる無意味な仕事を8時間もしなければならなかった。

私にはもっとすべきことがある。私にしかできないことがある。なぜ私がこんなくだらないことをしなければならないのか――。それは心の底からの怒りであり、叫びであった。しかし絵を描いて得られる収入といえば、せいぜい年に10万から20万くらいのもので、とても生活できるようなものではなかった。

アーティストとしての評価は悪くない。にも関わらずサラリーマンを続けなければならない。こんな生活をあと何年耐えればいいのだろうかと煩悶する一方、99%、死ぬまでこのままだろうことはわかっていた。

口にこそ出さないが、心の底には諦めがあった。合理的に考えれば、諦めているならやめればいい。しかし往々にして不合理に走るのが人間である。それはちょうど、とうの昔に愛想なんか尽きているのに、今まで関係した年月の重みから離婚に踏み切れない夫婦のようなものだった。

ある日の仕事中、ふと思いついた。会社にいる間は、始終まったく興味のない上司や同僚の会話がノイズとして耳に入ってくる。しかし、もしもこれが全員外国人で、すべて英語だったなら、と。この不快なノイズは有益な学びの時間となり、憎き賃労働もすこしは愛せるようになるのではなかろうか。

私は早速ブラウザのプライベートウィンドウを開き、ちょっと見ただけでは何をしているわからないまでに文字とウィンドウサイズを縮小した。「海外転職 WEBデザイナー」で検索をかけた。今まで一度も使ったことがないワードだった。

期待はしていなかった。なぜなら海外で働くといえば、英語がペラペラの人たちの世界だとばかり思っていたからだ。しかし、予想に反し、外国の仕事でも日本の転職サイトと変わらず日本語で紹介されており、英語力不要という仕事も散見された。

私はそのまま深い考えもなしに、クラウドに保存している履歴書や職務経歴書をダウンロードして、手当たり次第に転職サイトに登録した。ひょっとするとひょっとして、この狂おしく価値のない生活を根本から変えられるかもしれない。ベトナム、フィリピン、シンガポールなどのIT企業に、片っ端から応募した。

反応はすぐにあった。3日後にはSkypeで面接となり、1週間後にはシンガポールのIT企業から採用通知をもらった。展開が早すぎて、自分でも何が起こっているのかよくわからなかった。外国に興味があったわけでも、海外旅行が好きなわけでもなかった。Googleマップでシンガポールの位置を確かめた。距離感も実感も湧かず、めまいがした。

かろうじて国外に出たのはたった一度、小学6年の時に韓国に行ったきりで、今ではパスポートすら持っていない。もちろん英語も何も話せるわけがない。

日本人は英語の読み書きならできると言われるが、一切の勉強をしてこなかった私は本当に何もわからなかった。とりあえず現状を把握するべくTOEICを受けてみた。300点と中学生以下のレベルだった。むしろよく300点も取れたなというのが正直なところで、aとanの違いも知らなかったのである。

2016年の9月始めに内定が出て、同年の11月末に渡星した。シンガポールでの生活は、私の期待以上だった。職場は基本英語で、周囲から聞こえてくる英会話は、我が人生の選択を肯定し、悦に入るには十分だった。

日本であのままサラリーマンを続けていたらと思うとぞっとする。地下鉄で通勤することや、スーパーで買い物をすること、日本では無意味か、さもなくば苦痛だった一切が、世界が反転したような揺るぎない価値を持って輝いた。

ビザの期限である2年間は文字通り風のように過ぎ去った。ビザの更新を考えていたが、2年のうちにビザの取得要件が厳格化されていた。

ビザ発給要件の考え方は、基本的に世界のどこの国でも同じである。「自国民を差し置いて、その人をわざわざ国外から連れてくる価値があるかどうか」でしかない。

年齢は日本ほど問題にならないが、学歴は重視される。むろん、日本の求人でも「大卒以上」などと書かれているが、それに加えて「当社の要件ではなくビザ取得のための必要条件です」などという但し書きがあることもしばしばだ。そしてもっともわかりやすい基準が給与額である。

時給1000円の人と5000円の人、どちらが有能であるかは明らかだろう。私の場合は、月給4500SGD(約35万円)以上というのが、シンガポール政府から企業に課せられたビザ発給の要件だった(2016年時点)。

それがたった二年のうちに、月給6000SGD(約46万円)以上になったのである(2018年時点)。そもそも有能でもなんでもない私が、そんな条件を呑んでくれる企業を見つけることは絶望的だった。

日本に帰国することは不可避だった。しかし、すっかり外国暮らしを気に入っていた私は、日本に腰を落ち着けようとは思えなかった。それで前章で述べたように、とにかくはどこか外国に住めればいいと、転職活動を始めたのであった。

正直、すでに海外で就業経験のある私は、すぐに見つかるだろうとたかをくくっていた。だが、シンガポールを含むアジアと、ヨーロッパや米国ではまるきり勝手が違っていた。

フィリピンやベトナムは、企業負担でビザを提供してくれるのが普通だった。面接でも、日本の社会保険くらいの扱いで当然のものとして説明された。しかしイギリスやアメリカの企業は、すでにビザを持っていることが前提で、企業負担でビザを発給してくれる会社はほとんどない。

ビザをサポートしてくれる場合でも、そもそもビザが取れるかどうかはわからないというのだった。ご自身で法律事務所を探し、ビザ取得についてご相談いただきたいなどと言われることもあった。

さらにはビザの取得費用は自己負担で云々というような話も聞かされた。働きに行くにも関わらず、自己負担などあり得ないと思った。しかし繰り返し厳しい現実を突きつけられる内、アメリカで働けるなら、ビザ取得費用の自己負担もやむなしと考え始めていた。

そんな折、ロサンゼルスを拠点にする日系のIT企業から内定をもらった。欲を言えば現代アートの中心地であるニューヨークがよかったが、転職活動は長引いており、ここらで手を打つ必要があった。

妥協と言えば妥協だが、あの世界の村上隆がアメリカで最初に展覧会を開いたのがロサンゼルスだったという事実を知るにつけ、自分の選び取ろうとしている選択はポジティブなものなのだと思えるようになっていった。

その企業からのオファーを受ける旨の返事を出した翌日、採用通知書「らしきもの」が送られてきた。それは本来あるべき形式も何もない、いっそメモ書きのようなWordファイルだった。英語ではなく日本語で、職務内容、勤務地、就労時間などが、箇条書きでそっけなく書かれていた。Wordファイルなので、当然書き換えも自在である。

正直、私は不安になった。働くにあたり、自己負担で取得する予定のJ-1ビザは、彼の地では奴隷ビザとも呼ばれているのだ。

アメリカでホームレスとアートかハンバーガー 全30回(予定) *本記事で制作した作品についてONE BITE CHALLENGEシリーズ
ONE BITE CHALLENGE AFTER CORONAVIRUS (COVID-19)シリーズ
新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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    2020年より開始。ロスのホームレスとのアートプロジェクトでYouTubeに動画をアップしたところ、知人にトークが面白いと言われたことをきっかけにスタート。その後、死ぬまで毎日更新することとし、コンテンツ自体を現代アートとして継続中。

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