老いと定年の観察
最終更新: 2025/06/18
「まじめに働きゃあ、25万はもらえるじゃろう。手取りで20万はあるで。つつましく暮らせば十分やっていけるじゃろうが」
2025年現在の日本において、日夜労働に励む現役世代ならば怒りすら覚える発言だが、76になる実父が真顔で言う。
「要するに、最近の若いやつは贅沢なんじゃ」とも。
仕送りゼロという学生も珍しくない時代、やっと職を見つけても、結婚どころか、一人暮らしさえ叶わない人も多い。私は若者の経済事情のリアルを訴えるが、そんなわけがないと耳を貸さない。
とりあえず、こういう時は無私公平なChatGPTに聞くに限る。
「25万円もらって、手取り20万円くらいはある」っていう感覚、正直、平成初期か、よくて2000年代前半の感覚です。
掘り下げると、明快な回答が並ぶ。
「実質賃金がずっと下がっている」、「非正規雇用の拡大」、「社会保険・税負担が重くなっている」、そして「最近の若者は、贅沢どころか倹約的」など。極めつけは「上の世代の方が構造的に贅沢だった」。
昭和〜平成初期の価値観での「普通」が、いまや「夢のような生活」に格上げされてしまっている。
項目 昭和・平成初期 現在(2025年) 車 一家に一台は当たり前 維持費が無理。カーシェアで十分 外食 毎週ファミレス・飲み会 節約して月数回 家 結婚すれば持ち家 家賃で手一杯。住宅ローン組む余裕なし 貯金 ボーナスでしっかり 貯金ゼロも普通
おそらく賢明なほとんどの読者は失笑もので、いまさら確認するまでもないという感じであろう。このごく一般的な事実を説明しても、なお、父は自分の考えを曲げない。
自然、「老害」という言葉が頭に浮かぶ。しかし、私は呆れや軽蔑、腹立たしさよりも、なんとも言えない悲しさにとらわれる。
父が、昔から無学で無知蒙昧の阿呆だったというのであれば、安定の馬鹿野郎だと笑って済ませられるだろう。だが、決してそうではない。父は大学こそ出ていないものの、優秀なエンジニアで、私にとっては尊敬すべきインテリの父だったからだ。
たとえば、彼は30年以上も前、私が小学生の時分から、テレビはいずれ紙のようになり、丸められるようになると言っていた。それはブラウン管でファミコンをやっていた当時の私の理解を超えていたが、スマホが折りたためるようになった今、そうなるのは時間の問題であろう。
歴史は彼の十八番である。日露戦争のとき、なぜ弱小国の日本が大国ロシアに勝てたのかを、よく語ってくれた。日本海軍は、バルチック艦隊との対馬沖決戦に備えて、日本各地の似た海流・地形の場所で繰り返し訓練を重ね、万全の態勢で待ち構えていた。
そこへ、はるばるロシアから地球半周にも及ぶ航海を経て、疲弊した艦隊が到達。日本はそれを迎え撃ったのだという説明は、子供ながらに感心させられた。
小学生の夏休みの自由研究では、父が手持ちの適当なレンズを組み合わせて、土台から何から、ゼロベースの完全手作りで一緒に顕微鏡を作ってくれた。それで昆虫図鑑の印刷の三原色のドットが見えた時の感動は忘れられない。
それに読書家のせいか、ユーモアやウィットにも富んでいる。
一緒に山登りに行った時のことだ。「ゴミを捨てるな」という看板があるのを見て、父は言った。「ゴミを捨てるな書いとるのに、なんで捨ててあるんじゃあ思う?」私が考えあぐねていると、父は言った。「ほんまにバカじゃけえ、字が読めんのんで、絶対」
またある時、欧米にかぶれていた私は、料理問わず、箸ではなくフォークとナイフでの食事にハマっていた。それを見て父は言った。「つまむのと、刺すのと、どっちが文化的なんや」
そう、決して彼は愚かな人間ではない。むしろ賢い方だ。少なくとも「常に学び向上する人」であった。だからこそ、よけいに落差が際立って、それが私の目に悲しい。
歳をとったのだと言えば、その通りであろう。人は歳を経るにつれ、柔軟性を失い、頑迷になる。未来よりも過去が多くなることで、自分の既存の知識や経験を偏重するようになる。
たとえば、かつてマックのハンバーガーが、円高も相まって59円だった時代の価値観で現在の食事情を論じればどうなるか。世間知らずどころか、頭がおかしいと思われても仕方がない。
最近の父を見ていると、いろいろ、おかしい。思うに、それは加齢よりも、定年、リタイアしたことが原因のように見える。元来、人付き合いが得意な方ではなかったが、定年後はそれに拍車がかかった。
日がなテレビを眺め、めったに出かけることがない。友人はいない。仕事関係のつながりも途絶えた。地域の活動にも参加しない。飲みに行くとか、せめてメシでも食いに行けばよさそうなものだが、それもない。とにかく家にいる。徹底的に人と関わらない。
口をきく人と言えば妻ばかりである。にも関わらず、話しかけられたとて、テレビから目もそらさずボケ老人のような生返事という有り様である。将来のポジティブな成長など絶望的な分、反抗期のガキより始末が悪い。
昭和の遺物と言うべきか、外ではちゃんと人並みの対応をするくせに、身内には冷淡というか極めて雑である。どう考えても毎日接する妻の方をこそ気遣い、大切にすべきであろう。
目に余る問題は無数にある。ただ、この世の真理として、人を変えることはできない。変えられるとすれば、唯一、自分自身の方である。だから私は彼の内面を想像して、理解を試みる。
いま、おそらく彼はこう思っている。やれやれ、仕事にまつわる人間関係のしがらみから解放されて、ようやく自由になった。人付き合いが好きではない自分の理想の状況になり、幸せになったのだと。
しかし、「人付き合いが苦手」だということと、「人と接する機会が無い」ということは、まったくの別ものである。人間はどこまでも社会的な動物で、誰も彼も、人との関係性の中でしか生きていくことができないからだ。
部下への指示、同僚との会話、付き合い、取引先との折衝、接待、あるいは掃除のおばちゃんとの何気ない挨拶でさえ、すべて、人とのコミュニケーションは「世界に開かれた窓」として機能する。
たとえば、飲み屋で隣席の世間話を耳にするのは、テレビやネットで得られる無味乾燥な情報より何倍も価値がある。なぜなら、それは「経験をともなう血の通った情報」だからだ。
仮にどんなに眉唾のトンデモな話でも、あるいはスーパーのキャベツの高い安いという話でさえ、それは必ず人の思考と感情を刺激する。現に目の前にいる生身の人間の話ほど影響力のあるものはない。
もしもまだ父が現役で、いくらかでも若手と接する機会があったならと思う。いくら同意できない幼稚な意見でも、無碍にできるわけもない。最低でも、まずは素直に傾聴したはずだ。
あるいは、同年代の人との付き合いにしても同じだ。相手の言うことをハナから一顧だにせず否定して、自分の考えを押し通すなんてことは間違ってもしないだろう。
確かに、そうした一切は、彼にとっては面倒な社交であり、気疲れするばかりだと思っていたのかもしれない。
しかし、彼自身の意思とは関係なく、あらゆるコミュニケーションは、ほとんど自動的に彼の内面世界を豊かにし、人の意見に耳を傾けるという謙虚な態度を育む土壌となる。
たとえ演技やポーズでも、である。心理学の一説によると、脳は心からの笑いと作り笑いを区別しない。
つまり、人間は我々が考えるほど器用ではない。内弁慶を決め込んで、家ではその態度、外ではあの態度と使い分けることができる人などいない。
平常であればうまくごまかせるかもしれないが、ひとたび感情の乱れる場面に出くわせば、たちまちその人の素が露呈する。
そして遅かれ早かれ、ひとつの態度に収斂する。低きに流れる水と同じで、人間的にレベルの低い次元に落ち込んでいく。
書き立てればきりがないが、反面、私の見立てが当たっているとは思わない。むしろ、盛大に外れていることだろう。
親子といえど、人の心など絶対にわかるものではない。結局、人は人を誤解することでしか理解できない。それでも、私が現在の父を残念に思うこと、これだけは否定しがたい事実である。
本人が考え選びとって出来上がったのが今の彼の生活である。外野がいくら「人間関係の窓としての価値」なんてポエティックに訴えてみたところで、それこそ彼が見ているテレビの音量を下げることさえできないだろう。
しかし、目に見えない低気圧が自分の意思とは関係なく頭痛を引き起こすように、人から距離を置くという非人間的な態度は、確実に世界に開かれた窓が閉じられていくということを意味し、孤独という病に至る。
あの人も、この人も、自分とは関係ない、めんどくさい、どうでもいいと思っていても、そのひとつひとつは、どうしようもなくかけがえのない「窓」なのだ。そのことを知らない人は、ひとつ、またひとつと安易に閉じて、光を失ってゆく。
ついに窓はすべて閉じられて、真っ暗闇になって初めて気づくも、時すでに遅し。「それではみなさん、さようなら」と伝える人も見当たらない。
これがいわゆる孤独死で、近年とみに増えている。

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
- 前の記事
- 2025/06/10 更新 ChatGPTはマザコンの始まり
- 次の記事
- 2025/06/25 更新 アメリカでホームレスとアートかハンバーガー (17) 恥か罪か運命か
出版社・編集者の皆様へ──商業出版のパートナーを探しています
*本ブログの連載記事「アメリカでホームレスとアートかハンバーガー」は、商業出版を前提に書き下ろしたものです。現在、出版してくださる出版社様を募集しております。ご興味をお持ちの方は、info@tomonishintaku.com までお気軽にご連絡ください。ブログ一覧
-
ブログ「むろん、どこにも行きたくない。」
2007年より開始。実体験に基づくノンフィクション的なエッセイを執筆。不定期更新。
-
英語日記ブログ「Really Diary」
2019年より開始。英語の純粋な日記。呆れるほど普通なので、新宅に興味がない人は読む必要なし。
-
音声ブログ「まだ、死んでない。」
2020年より開始。日々の出来事や、思ったこと感じたことを台本・編集なしで吐露。毎日更新。
何かしら思った方は、ちょっとひとこと、コメントを! 作者はとても喜びます。
わかりやすく投げ銭で気持ちを表明してみようという方は、天に徳を積めます!