アメリカでホームレスとアートかハンバーガー (8) 古き良きアメリカンドリームの現実

経済、スポーツ、科学、芸能、なんにしろ夢を持つ者なら一度はアメリカ行きを考える。それは歴史をひもとけば、粗末な丸太小屋で生まれたリンカーンが大統領にまで上り詰めた比類なきサクセスストーリーに行き着く。そこにエジソン、フォード、ディズニー、アームストロングと、偉人を挙げればきりがない。

現在も、ジョブズ、ザッカーバーグ、ベゾスと、アメリカ発のプレイヤーがリアルタイムで歴史を更新し続けている。それらのイメージが一緒くたになって絡み合い、理解を超えた熱量の塊となって、野心ある者の胸に響くのだろう。

だが、私の場合、アメリカに対する憧れはあまりなかった。アーティストたる者、なにはなくとも唯一無二のキャラクターでなければならない。だとすれば、誰もが行きたがる所に行ってもしょうがない。海外転職してシンガポールに2年ほど住んだこともあり、外国で得られる経験、異文化理解や語学力の向上の面でいえば、どこの国だろうが大差ないと考えるようになっていた。

ちなみに、アーティストとしてビザを取得し、海外に住むなどというのは夢物語である。日本でメシが食えないものが、どこか海外に行けば食わせてくれるような都合のいい国はない。だからこそ、自分のスキルセットにおいて市場価値のある能力を使って海外に打って出るというのが私のやり方であった。

移住先の候補としては、ベトナム、オランダ、香港、イギリス、ドイツ、フィリピン、そしてアメリカと、雑多でこだわりがなかった。しかし、肝心の転職活動は難航した。

基本的には転職エージェントを足がかりに企業選考へと進むのだが、イギリスはどこのエージェントにお願いしても、よほどの特殊技能がなければ無理だとつっぱねられた。ドイツやオランダは私でも入り込めそうな日系企業自体が少なく、まとまりかけたベトナムやフィリピンの案件も最終選考で落とされた。

そんな折、エージェントを介さず、各国の現地企業に手当たり次第に履歴書を送りつけていたところ、偶然チャンスを得たのがアメリカのロサンゼルスにある日系のIT企業であった。

ただ、これは苦肉の策とも言えるものだった。一部では奴隷ビザとも呼ばれて悪名高い、J1ビザという枠での採用なのである。別章で詳述するが、50万円弱もかかるビザの取得費用は自己負担で、期限は一年半。

ビザの延長も更新も不可。おまけに給料も前職の半分ほどに買い叩かれる。そんな条件を四十路に足の掛かった男やもめが呑むのは正気の沙汰ではない。それでも私が躊躇なくその道を選べたのは、やはりアメリカン・ドリームなるものに野心を刺激されたからだろう。

とはいえ、私にはアメリカで一旗上げるための具体的な方策もビジョンもなく、あったのは幼稚とも言えるアメリカのイメージだけだった。

少年の日に見たフルハウスがアメリカにおける一般家庭で、セサミストリートは子供が楽しく暮らしている雰囲気、そして映画ターミネーターはアメリカという国を擬人化して、無敵の超国家のイメージを強烈に印象づけた。

それらがないまぜになったものが私にとってのアメリカだった。もちろん、広島に生まれ育った私は、原爆のことを忘れるわけにはいかない。他県に比べ平和教育に力が入れられていたし、祖父母から原爆の落とされた音を聞いたというような話を聞かされてもいた。

だがそれさえも、アメリカの強大さの例証としてプラスにこそなれ、マイナスにはならなかった。結果、あらゆる面において世界の頂点に立つ国なのだという、単純によいイメージしかなかったのである。

そんな私のイメージを、アメリカ、ロサンゼルスの現実はあっさりと裏切った。繰り返すことは避けるが、ホームレスの存在がその筆頭である。

加えて、少し街を外れれば、爆弾でも落とされたのかというほどゴミが散乱する荒れ果てた光景が散在する。いわゆるスラムである。日本にスラムはない。シンガポールにもなかった。貧富の差も激しいが、地域による景観の差も激しい。

あるいは、アメリカに対する失望の原因は、このとてつもないギャップの存在によるのかもしれない。みな同じで横並びをよしとする日本人の国民性からすれば、上を仰げば果てがなく、下を見下ろせば底がない。そんな状況に身を置くことそれ自体が強いストレスになる。

しかし、思う。もしも私の仕事が祖国とは比べようもなく高賃金であったなら、私は素直にアメリカを称賛し、失望などしなかったのではないだろうか、と。

むろん先に述べたように私の給料は半減し、生活は楽ではない。それはそうなのだが、もし仮にビザの問題もなく、経歴に見合った仕事を得られていたとしても、給与が倍になるわけではない。つまり、日本やシンガポールでの生活水準が、そのままアメリカでもゆるやかに続くだけだったろう。アメリカン・ドリームと呼ぶにはあまりにも貧しい。

そう、私を含め、多くの日本人はアメリカン・ドリームなるものを勘違いしているきらいがある。実は、アメリカン・ドリームの定義は恐ろしく地味なものでしかない。

曰く、『親の代より子供の代のほうが豊かな暮しができること』、それだけのことなのだ。私はこれを渡米した後に初めて知った。もしこの定義を正しく認識していたとすれば、アメリカに行こうなどとは思わなかったかもしれない。

アメリカン・ドリームという言葉が初めて使われたのは、歴史家ジェームズ・トラスロー・アダムスの1931年の著作だと言われる。

彼はその著書「米国の叙事詩(The Epic of America)」において、アメリカン・ドリームとは「誰にとっても生活がより良く、より豊かな、より充実したものとなり、各人がその能力ないし達成に応じて機会を得ることができるような土地の夢」だと述べている。

みな夢を持ってアメリカの地を踏むのは、今も昔も変わらない。私も渡米して間もないころは、自分はアメリカにいるという事実を、何度も反芻し、その度にどこか甘美な気持ちを味わったものだった。

しかし現代、世界は高速通信網によりシームレスで接続されている。たとえば、野心や夢があろうがなかろうが、誰でも見知らぬ土地の宿を押さえ、ぼったくりの心配もなくUBERを呼びつけ、そしてアメリカに着いただなんだとSNSで発信すれば、さっきまで一緒にいた家族や知人友人がリアルタイムで反応する。

そこには、かつてアメリカに渡ってきた移民が悲喜こもごもとともに感じたであろう「祖国とはなにもかもが違う異次元世界」はもはや存在しない。私に関して言えば、生活の場を日本から北東に1万キロばかり移したに過ぎないというのが、偽らざる実感である。

現代、もっとも切実な思いをもって、死を賭してでもアメリカを目指す人々は、かつてドイツやオーストリアから戦禍を逃れて亡命者になったような人々ではない。たとえば、長く続いた内戦の影響で、いまだ経済的に貧しい国であるボスニア・ヘルツェゴビナやセルビアの人々は、アメリカよりもすぐ近くのドイツを目指す。

仕事の機会や豊かさで言えばアメリカと大差ないのだから、わざわざ遠く海を超えてアメリカまで行く必要もない。同じヨーロッパであれば文化や習慣の親和性も高く、暮らしやすいこともあろう。

あるいはフィリピンやマレーシアといったアジアの発展途上国であれば、近隣の香港、シンガポールを目指す。経済的な上昇を求めるだけなら、アメリカだろうがドイツだろうが、香港、シンガポールだろうが同じことなのである。

では今、いったい誰が古き良きアメリカン・ドリームを求めて力強くアメリカの地を踏まんとするのかと言えば、メキシコからの移民が中心だ。

アメリカとメキシコの国境は、世界でもっとも大きな賃金差があると言われる国境である。文字通りたった一歩その境界線をまたぐだけで、賃金は5~10倍にもなる。日本で年収300万円で働いている人が、一気に年収1500~3000万円になると考えれば、その途方もなさがわかる。そんな道が目の前にあれば、野心家でなくても心揺れるに違いない。

しかし、先進諸国で生まれ育った人々にとってはもう、そんな夢の国は世界のどこにもない。

そもそも、かつてアメリカン・ドリームの定義で一番重要かつ崇高だった理念「各人がその能力ないし達成に応じて機会を得ることができる」というのは、階級間移動が実質的に不可能だった時代でこそ揺るぎない価値と魅力があったろうが、今ではほとんどの国で実現してしまった。

要するに、日本だろうがどこだろうが、志を高く持って努力しさえすれば、アメリカン・ドリームは実現可能なのである。

むろん、親の代より豊かになることは、現代日本では難しい。それはアメリカとて同じである。もっと、世界中の先進国で、親の代より豊かになることはほとんど至難の業なのだ。つまり、ナイーブでピュアなアメリカン・ドリームという幻想を求めてアメリカに渡れば、遠からず失望するのは必然とも言えるのである。

レストランに行くと、しばしばメキシコからの移民とおぼしき人々に出会う。私には英語で接し、同僚とはスペイン語で話している。会う人会う人が実に陽気で屈託がなく、人生を謳歌しているように見えるのは、メキシコ人の国民性だけではなく、現代、唯一のアメリカン・ドリームの体現者だからという面があるのではないだろうか。

そんな夢が感じられる一方で、昨今、メキシコからの移民の立場は思わしくない。ある若いメキシコ人のタクシードライバーと話したことがある。

子供の頃に親に連れられてメキシコからアメリカに渡って来た彼は、以降、祖国を訪れることはおろか、国外に出たことがない。その境遇は、通常アメリカ国民が持っている市民権とは異なるのだという。彼は言った。外国に行こうと思えば、行けなくはない。ただし、二度とは戻って来れないのだと。深堀りしようとする私に、彼は「複雑なんだ」と言葉を濁した。

後に知ったことだが、彼はDACA(Deferred Action for Childhood Arrivals)の立場だった可能性が高い。これは幼少期に家族に連れられて米国に入国し、そのまま不法滞在となった若者の強制送還を免除する措置で、2012年6月にバラク・オバマ前大統領により導入されたものだ。しかし、のちに大統領となったドナルド・トランプにより、2017年9月に撤廃が発表された。

よくも悪くも、アメリカはダイナミックに変化する。1990年代にアメリカに渡ってきた会社の先輩は、酔うと決まって昔話をする。

その時分、渡米するのは難しくなかった。まず、日本の通常のビザでアメリカに入り、期限一杯の3ヶ月ほど滞在する。もっと居たいと思ったら、適当な語学学校に入って学生ビザを取る。それで2、3年は過ごせる。働けば金はなんとかなる。不法就労でも、雇ってくれる所はいくらでもあった。そして学校を出て申請すれば、だいたい永住権、グリーンカードが取れた。彼自身もそのクチだという。そして最後に「今はもう絶対そんなの無理だけどね」と、どこか憐れむような物言いで、期限付きの私に言うのだった。

現実問題、自由の国アメリカは過去の話である。先のタクシードライバーは、メキシコにいる友人や祖父母に会いたいとも言っていた。だが、トランプの就任以降、移民に対する規制は厳しくなる一方で、再会の見込みは薄い。国境の壁はいよいよ厚い。全米には1100万人の不法移民が存在すると言われる。その子供であるDACAの対象者も、数百万人に上る。

彼らの状況はいかにも困難に満ちている。反面、いまだ彼らのアメリカン・ドリームは輝きを失っていない。アメリカで普通に働くだけで、祖国では一生かかっても得られない大金を数年で得られる。地元の親類縁者に一部でも送金すれば、たちまち英雄扱いである。彼らの成功談は広まり、感化されたメキシコの若者が、また夢と希望を持ってアメリカの国境超えを目指す。

そのストーリーは、1848年に起こったゴールドラッシュを彷彿とさせる。カリフォルニアで金鉱が発見され、夥しい数の夢見る若者が西を目指した。西漸運動として歴史に刻まれるその出来事は、しばしばリーバイスのジーンズ誕生の時代背景としても語られる。かつて、フロンティアを求めて西に向かうことは、豊かになることとイコールであった。

夢見る人間というものは、野心があり精力的だが、往々にして浅薄でもある。だからかもしれない。メキシコからの移民の中には、アメリカまで来ながら、スペイン語しか話せない者も少なくない。

近年、アメリカのスペイン語人口がスペインの人口を超えるとも言われるが、それでも全米におけるスペイン語の使用率は2割にも満たない。この国で英語が話せないことは不便を通り越して死活問題のはずだ。

バーガーチャレンジにおいても、英語がまったく話せない人に複数出会った。言語能力で単純に仕事の幅が狭まることを考えれば、まさに死活の分かれ道で、彼らは生き残れずホームレスに転落してしまったのかもしれない。

最初期にバーガーチャレンジをしてくれた、メキシコからの移民の一人であるルイを、今でもよく見かける。チョッパー型に改造した自転車にスピーカーを積み、大音量の音楽を流しながら爆走している。

拾ってくるかどうかした自転車を分解し、パーツを組み合わせて改造しているホームレスは多い。ルイは、私がハローと手を振ると、単車にでも乗っているような堂の入り方で手を挙げる。

さながらイージーライダーである。いやもっと、彼は主演のデニス・ホッパーと同じヒッピーそのものではないか。街を捨て夜な夜な野宿するのもそうだし、自由と平和を求めるのも同じ、マリファナを吸うのまでそっくりだ。

何が違うのかと言えば、夢や希望、そして自由のスケールだろう。似たような身空でも、バイクでアメリカを横断すれば旅人にもなろうが、自転車で半径4、5キロをうろつくだけなら浮浪者でしかない。映画イージーライダーが公開された1969年当時、先駆的な生き方でヒッピーと呼ばれて憧れられもした人々は、今ではホームレスと呼ばれて嫌われるらしい。

アメリカでホームレスとアートかハンバーガー 全30回(予定) *本記事で制作した作品についてONE BITE CHALLENGEシリーズ
ONE BITE CHALLENGE AFTER CORONAVIRUS (COVID-19)シリーズ
新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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  • 音声ブログ「まだ、死んでない。」

    2020年より開始。ロスのホームレスとのアートプロジェクトでYouTubeに動画をアップしたところ、知人にトークが面白いと言われたことをきっかけにスタート。その後、死ぬまで毎日更新することとし、コンテンツ自体を現代アートとして継続中。

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