傷を育てる

映画館を出ると、突風が吹いてきた。

と言っても、オランダの冬において激しい風雨はデフォルトである。とにかくは、それで私のかぶっていた帽子が宙に舞った。

そして勢いよく歩道に落ちて、そのまま冗談みたいに転がっていった。私はそれを追って駆け出した。水たまりに落ちるのだけは避けたいと手を伸ばしたその刹那、私はつまづき転倒した。

倒れている私に、目の前を歩いていた老婦人が、大丈夫か何か、オランダ語で言いながら帽子を拾い上げて渡してくれた。「Dank u wel(ありがとう)」と言えたはいいが、右の手のひらを見ると派手に皮がずるむけ血が滲んでいる。

ここまでわかりやすい怪我を見るのは数十年ぶりで、にわかに動揺する。きゅうりの皮でもむいたように傷の端っこで丸まっている生皮が恐ろしくなって、反射的に指でつまむと、ひきちぎって捨てた。

気が動転しているのか、何ごともなかったかのように行きつけのバーに向けて二、三歩ばかり勢いよく踏み出して、しかしこれはさすがにまずいと考え直して映画館に戻る。トイレに行き、流水で傷口を洗う。備え付けのペーパーで血をぬぐう。

あらためて傷口を仔細に見て、動揺する。自分の肉体に起こっていることが信じられない。次から次に血が滲んでくる。のんきに映画を見に来てこんなことが起こるなんて。ずきずきと痛む。一寸先は闇とはよく言ったものだと、当たり前にすぎる言葉が頭に浮かぶ。

しかし同時に、幸運だったとも思う。もし手が出ていなかったら、顔から突っ込んでいたかもしれない。あるいは、道路にガラスの破片なんかが落ちていたとしたら。あるいは手の突きどころが悪く、骨折していなかったとも限らない。

これくらいで済んでよかった。そう思うと徐々に冷静になってきて、とりあえず持っていたバンドエイドを貼って、予定通り行きつけのバーに向かった。

到着すると顔馴染みに笑顔で挨拶をして、カウンターに腰をおろす。ビールを頼む。いつも通り、平静を装ってはいるものの、その間も耐え間なく痛みが続く。

ビールを口に含んで、手のひらのことを考える。ふだん、手のひらのことなんか考えないし、考えたこともない。だけど、痛みの存在感は尋常ではなく、嫌でもそこに意識が向かう。

痛い。痛いんだけれども、なんというか、何かが新しく生まれたみたいだなと思う。子供みたいな。だって、ついさっきまで、それは「いなかった」のだ。だけど今は何かが確かに存在する。

ああ、確かにこれは子供とそっくりだ。そう、子供は血みどろで、痛みの中で生み落とされる。

ひとり、妙に腑に落ちた心持ちになって、にわかに気分が上向く。ビールを飲み干して、また別のビールを注文する。

痛む。それも、かなり。しかし、案外悪くないかもしれないとも思う。傷は、いつか治る。完全に癒えた時、それは消え去る。子供が育って家を出ていくみたいに。

しかし今はいる。いてくれるのだ。そう思うと、痛む傷に愛おしさのようなものがわいてくる。いや、真面目な話。そうだ、これを育ててみようと思う。断っておくが、頭は打ってない。

それから、私と傷との新しい生活が始まった。ほぼ片手での生活。傷のある手のひらを避けて手を洗おうとしても、往々にして傷に水がかかり、バンドエイドが濡れる。こまめにバンドエイドを張り替える。シャワーの時、身体を洗うのも片手、シャンプーもまた完全に片手であった。

負担である。不自由である。はっきり言えばめんどくさい。いい加減にしろ。誰のおかげでぬくぬくメシが食えると思ってるんだ。

しかし、子育てとはそういうものだろう。できが悪くてどうしようもない我が子に不平不満はごまんとあれど、とにもかくにも守り、慈しみ、育て上げる。

あれから一ヶ月ほどが経った。もはや痛みは雲散霧消して、残されたのはかすかな傷跡ばかり。

痛くなくなって、なによりだ。治ってよかった。だけど、なんとなく寂しい。またいつか、気が向いたら、生まれてきてくれたらうれしい。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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2025/10/27 更新 安い航空券は高い

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