不自然のドローイングシリーズのコンセプト
正直な話、子供の塗り絵からの発想である。
どこにでもある、アニメのキャラクターなどの塗り絵。それに子供は、ほとんど白紙と同様に描写する。正確な黒い輪郭線に対して、はみ出すもなにもなく、自由奔放、勝手気ままに描き殴る。
今まで何度となく見たことがあり、また見流してもきたそのビジョンの新しさに、ぼくはあるとき啓示を受けるように気がついた。それは新しい抽象絵画だと思われた。しかし厳然たる正確な輪郭線が、具象へも押し戻そうとしていて、判然としない。
具象と抽象。それは古くて新しい問題である。半具象だとか半抽象だとかいう言語表現にもある通り、それはいまだにせめぎあっている。
それはともかく、まったく、ぼくがやろうとしていることは子供の塗り絵そのものなのである。しかしこのばかばかしいほどの単純な手法は、現代における具象絵画、抽象絵画のあり方に対するひとつの答えになり得るものだと確信している。
不自然のドローイングシリーズについての参考文
現代のデッサンの可能性は、不自然な行為の中にしか存在しないのではないか?印刷物、テレビ、ウェブをさまよう無限の画像や映像。それらを空気のように吸う現代人にとっての現実は、何らかの媒体にコピーされた虚構の世界へと大きくシフトしている。本来デッサンは、目の前の「現実(立体)」をいかにそれらしく「虚構(平面)」に置き換えるかという行為であった。しかし今では虚構から虚構にそのままスライドさせるだけである。眼は機械的なカメラとなり、三次元を二次元に置換する不可能性との格闘の中で生じる人間性は失われた。それはひとつの行き詰まりで、打破しなければならない。だから、いかにも人間らしい――しかし往々にして不自然な――汚れやしみ、かすれ、思わせぶりな筆致、奔放な線描で人間性の回復を図る、いや、そのように”見せかける”のである。
(第2回宮本三郎記念デッサン大賞展への提出課題より)