現代美術―アール・ヌーヴォーからポストモダンまで (海野 弘、小倉 正史/新曜社)

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あの人はおかしいとか、なんとか、人は言う。しかし、その判断基準、ふりかざすモノサシの不確かさ、曖昧さについて疑う人は少ない。

狂ってもいないが普通でもない

狂気と正常とは、そもそも分かちがたいのであって、むしろ両極は往還して溶け合っていると考えるべきである。

パウロがテンカンではないかということであり、バイブルに現れるパウロの表現に、テンカンの要素が見られるということであったが、マホメットがテンカンらしいということは普通言われていることであり、狂信的世界はたしかに幻想の実在的確信を伴い、宗教家にテンカン患者がかなりいるのではないかと思われる節はある。

これが真実だとすれば、狂人(と思われる、あるいは見える人)が作り出した宗教に、どうして、正常な人の側が排除もせずむしろ共感して便乗し今日に至るという見方も可能であろう。

正常とは抑圧された状態

正常であろうとすることは疲れることである。サラリーマンなどという、完全なる型にハマった状態を長く続けていると、しばしば世界の果てまで逃走したいような心持ちになるのはそのためである。

抑圧を解放してはならないのだ。あらゆる抑圧を解放すれば、人間がどうなるか、分りきっている。色と慾。たゞ動物。それだけにきまっているのだ。

まともであること、普通であることは、よくも悪くもなんらかの我慢なくしてはあり得ないのである。

異常というスケープゴートを探して

正常であることが疲れることだとしても、臆病な我々はあくまでも普通であろうと頑張る。

しかし、正常とはどこまでも異常との対比、その距離によってしか規定し得ないものである。そのため、正常であろうとする我々は、常に異常なる存在を必要とする、もっと、欲するのである。

精神病者は自らの動物と闘い破れた敗残者であるかも知れないが、一般人は、自らの動物と闘い争うことを忘れ、恬として内省なく、動物の上に安住している人々である。  小林秀雄も言っていたが、ゴッホの方がよほど健全であり、精神病院の外の世界が、よほど奇怪なのではないか、と。これはゴッホ自身の説であるそうだ。僕も亦、そう思う。精神病院の外側の世界は、背徳的、犯罪的であり、奇怪千万である。  人間はいかにより良く、より正しく生きなければならないものであるか、そういう最も激しい祈念は、精神病院の中にあるようである。もしくは、より良く、より正しく生きようとする人々は精神病的であり、そうでない人々は、精神病的ではないが、犯罪者的なのである。

いつの世も猟奇的な事件というものがあって、そこには自ずと多大なる興味と関心が集まるものだが、その理由のひとつに、あからさまな異常を見聞きすることによって、自分の正常を確認できるという効能がある。

本当は、皆わかっているのではなかろうか。自分が正常であるかどうか、なんの保証も担保もないことに。

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