歯痛悶絶日記(3)〜義理人情忘れセカンドオピニオン
2017/08/22
日を改めて治療しましょうとは言ったものの、医者は次回の診療予約を促すでもなく、ぼくもぼくで、予約する気にもなれなかった。
とにかくは形だけのお礼を言って、河田歯科を後にした。
まだ正午前だった。天気がよく、空は晴れ渡っていた。ぼくの心中はその真逆だった。
ぼんやりと麻酔の続くしびれた左頬を抱えなら、歩き出した。あいつもとんだヤブ医者だ。ぼくは心の中で罵った。
そもそもフリーター崩れで、ただの一度も一生懸命に仕事に取り組んだことがないぼくが言うのもなんだが、プロフェッショナルとしてそれはないだろうと思った。医者に限らず、職業人として失格だ。本当に困ったとしても、それは絶対に言ってはだめなのだ。どんなに困っても苦しくても、大丈夫です、おまかせくださいと胸を張るのがプロというものだろう。
そんな当たり前のこと、馬鹿でもわかることではないだろうか。いやいや、そうか、あいつは馬鹿以下のカスなのかもしれない。
それはともかく、この歯をなんとかしなければならない。こんなどうしようもない不安を抱えたまま三連休の週末を過ごすなんてまっぴらごめんだ。
それでぼくは、かかったことはないが、何度も前を通ったことがあり、外観がやたら小綺麗なことで記憶に残っていた、「水入歯科(みずいりしか)」に向かった。
水入歯科は、河田歯科からは徒歩10分程度のところにあった。向かいながら、iPhoneで水入歯科の口コミを調べた。おおむねよさそうなことが書いてあった。しかし、あのカープ気違いも、医者失格の困った野郎のところでさえもよい口コミがあったので、もはや口コミなど信用できなかった。しかしそれでも一縷の望みをかけて、水入歯科を訪れた。
歯科に限らず病院は、土曜の午後は休診がほとんである。しかしなんとか午前中の診療にすべり込むことができた。しかし、土曜だというのに患者はぼくのほか誰もおらず、それがまた自然ぼくを疑心暗鬼にさせた。またヤブ医者ですかと。それともなにか、広島のひとは滅多なことでは歯医者に行かないのか。
保険証を渡して初診の問診票に記入すると、1分とたたずに診察室に通された。
看護師か事務員か、とにかくはナース服の女性に診察台に座らされると、ほどなく医者が現れた。医者は年のころ不惑のあたり、そして小澤征爾の若かりし頃といった風貌で――曲がりなりにも小説家を志したことのある者の文章表現として、著名人を引き合いに出すのは最低であることは重々承知しているが――いかにも自信に満ち溢れた顔つきをしていた。
ぼくは今までの、というかつい今さっきまでの残念すぎる経緯を、事細かに説明した。医者はほどよく相槌をうち、頷き、静かに耳を傾けた。
「よくわかりました。話を聞く限り、そのお医者さんの処置がそれほど間違っているとは思いません。その歯が割れているというのが正しければ、わたしもそのような処置をするでしょう」
それから、口の中を見せた。歯が割れているのは目視では確認できないが、おそらく正しいだろうとのことだった。
「ただ、前のお医者さんが言ったことをそのまま引き継いで、同じことをしようということはしたくありません。わたしはわたしで、歯が割れているという確信を持ってから治療に当たりたいと思います」
医者は、演説でもするように流暢に話した。声色、抑揚、そのすべてが相まって、それは有無を言わせない説得力となってぼくの胸に響いた。
「ただ、今日いまからというのはやめたほうがいい。すでに麻酔を打っているところへさらに麻酔を打つというのはあまりいいことではない。それに、麻酔の効き目が日によって違うということは確かにあるんです。今から麻酔を追加すれば効くかもしれないが、可能性は低い。それに、すでに痛みがある時に打つ麻酔は、痛みとの相殺効果によって効きが悪くなるということもよくあるんです」
ぼくは阿呆のようにただただ首肯した。その先生には、芸術でいうところのアウラがあった。言葉を越えた何かがあった。なんてすばらしい先生だろうかと、感心して、感服した。あのカープ気違いと医者失格野郎に、この先生の爪の垢を煎じずにそのまま飲ませてやりたいと思った。
説明は実によく理解でき、また深く納得できた。これぞインフォームド・コンセントであった。
しかし、華の三連休の週末をこの恐ろしき痛みを抱えたまま乗り越えるのだけは避けたかった。そこで、何か、とりあえず応急処置でいいんでどうにかなりませんかとぼくは訴えた。お米ひとつぶ噛んでも痛いんです。
先生は言った。では、歯の高さを落として、そこが上の歯と当たらないようにしましょう。そうすれば、お米一粒くらいがそこに挟まったとしても、物理的に下の歯とは当たらないというわけです。それに、神経を抜くとなれば、どちらにしろ銀歯になるので、歯を削ることは避けられませんから。
小学生でもわかる理屈であった。ぼくは素直にその処置に従った。医者失格野郎が打った麻酔がまだ効いており、まったく痛みはなかった。
「わたしの診療方針に納得できるようであれば、また週明けにいらしてください」
診察台を立ったぼくに、どこまでも自信に満ち溢れた医者は言った。それは、あるいはぼくが中高生あたりであれば、医者という職業に憧れ、たちまち志してしまいかねないようなまぶしさがあった。
つづく。
【実録ドキュメント】歯痛悶絶日記(全4回)- 歯痛悶絶日記(1)〜ヤブ医者の診断は拙速を極めて
- 歯痛悶絶日記(2)〜切った張ったの歯医者さん
- 歯痛悶絶日記(3)〜義理人情忘れセカンドオピニオン
- 歯痛悶絶日記(4)〜名医と歯痛はかく語りき
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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