オランダで家を探して見つけるまでの話(4)

  2021/12/23

確かに内容は問題ない。しかしどうしてもタイピングされた正式な契約書が必要なのだと、再三再四説明する。にわかには信じ難いが、冗談抜きで今の今まで一回も契約書というものを交わしたことがないらしい。

私にとってというか文明社会に生きる者にとって当たり前に過ぎる要求は彼女にとって無理難題なのか、アンはしばしばヒステリックになって「私はあなたを信用して部屋を貸すんだ!」などとわめくように言った。私はそのたび、なだめて、事情を説明してを繰り返した。

「なんにしろ私には作れないから、誰かにタイピングを頼まないといけない」ようやくで折り合いがついたものの、まさか費用がかかるとは思わなかった。

本来黙っていても出てくる契約書を何が悲しくて金を払ってまで作ってもらわなければならないのか。いくらかかるのか聞くと20か30EUR(約2560円〜3,840円)くらいだろうという。

なんでもいいから作ってくれと頼み込んで首を縦に振らせる。いつ用意できるのか聞くと、一週間ほど欲しいという。

本当にちゃんと用意できるのかどうか怪しいことこの上ない。何度も念を押すが、疑っていてもきりがない。ええい、ままよと現金で用意してきたデポジットと初月家賃の計2000EUR(約255,000円)が入った封筒を手渡す。

彼女は1枚1枚ワン、トゥー、スリーと声に出してカウントする。全て50EUR札で計40枚。きっちり揃っていることを確認し、アンは満足げな笑みを浮かべる。

私も私でなんだかホッとして、OKと言いながら手を差し出す。彼女は「ウェルカム、マイファミリー」と笑顔で痛いくらいに強く握り返してくる。とはいえ、二人の間でいったい何が成立したのかは第三者には不明だろう。

そして念願の部屋の鍵を受け取る。これで私も晴れてオランダの住人だ。入居はまだ先になるが、2、3日後にいったん荷物を運び入れにくることを伝える。それまでに部屋を掃除して、寝具などを整えておいてくれるということで話がまとまった。

帰ろうとすると、アンはこれからちょうど買い物にいくところだというので、一緒に外に出た。

ヨーロッパの冬の日は短い。5時を過ぎればすでに暗い。駅前まで歩き、ここが肉屋で、雑貨屋で、スーパーがあって、便利な場所なんだと周囲を案内してくれる。

色々あったけど、なんだかんだいい人じゃないか――私はそうひとりごちた。いや、正確には、そう思い込もうとした。彼女の感情的な側面が気にかかった。スーパーで一緒に買い物をして、駅前でこれからよろしくと言ってもう一度握手をして別れた。

2日後、私はスーツケース他、重い荷物をかかえてアンの家、もとい私の部屋を訪れた。すでに鍵は持っているので、自分で解錠して入る。ハローと言いながら階段を上がるが、誰もいないらしい。

部屋に入る。なにか臭う。生乾きの洗濯みたいな、異臭。窓を開けようとするが、ベッドの奥にある大きな窓ははめ殺しで、その横のベランダに通じるドアは施錠されていた。自室の鍵を差し込んでみるが、合わない。どうやら私にアクセス権はないらしい。

ベッドの上に立って、天井近くに設けられた小窓に手をかける。申し訳程度に開いたものの、たいした換気は期待できそうにない。やれやれとベッドから降り、あらためて冷静な目で部屋を見回す。今まで気づかなかったあれこれが目につく。

用意してくれたらしいベッドカバーには、カウボーイでもあるまいに大きな牛骨が描かれている。それに明らかに使い古しだ。机は表面が禿げたり汚れていたりで、椅子はビニール張りで背もたれがぐらつき外れかかっている。IKEAっぽいクローゼットにはもともと扉がついていたらしいが、それは消え無用の金具だけがかつての痕跡を残すばかり。横には小汚いシングルのマットレスが押し込まれたように直立している。その前面には無駄に立派な一人用の花柄ソファーがあって異様な存在感を醸し出す。

とりあえず、全部捨てたい——牛骨の上に寝ころんで、天井を見上げる。やはり臭い。これで13万もするのかと思うと、無性に悲しく、情けなく、今すぐ広島に帰りたくなった。

階段を上がってくる音が聞こえる。アンが帰ってきたらしい。私は彼女への挨拶もそこここに、部屋の不備を伝えた。マットレスをどけてほしいし、ソファーはいらない。

すると彼女は、他にマットレスを収めるところはない。誰か来た時に使えばいいという。オランダには友達もいないし誰も呼ぶことはないから使わないと伝えると、アンの知人が来た時に使うことがあるという。

だったらそれはあなたのスペースで保管するべきだと反論するが、とにかくは他にマットレスを収めるところがないというばかりでらちがあかない。いっそ捨ててもいいかと聞くと、これは私の財産の一部であり勝手なことは許さないと頑なだ。

ソファーについても同様で、他に移動する場所はない。逆にどうしていらないのかと不思議がり、座ってリラックスすればいいじゃないかと、わざとらしく自分が座ってみせる。

じゃあ捨ててもいいのかと言えば、やはりれっきとした財産で私のものだと主張する。それならどこかで売ってその金をあなたに渡すならどうだと聞いてみると、それならいいと笑う。ふざけろ。こんなゴミに金を出すやつなどいるものか。

私はどうにかこの人とうまく付き合っていこうという気持ちと、殺すぞクソババアという葛藤でわなわなしつつ、職業柄もっとも重要なWiFiのパスワードを尋ねた。

「それは教えられない」——私は耳を疑った。

オランダで家を探して見つけるまでの話 全5+1回
新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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