オランダで家を探して見つけるまでの話(3)
2021/12/24
さてこれからどうするか案じていると、facebook経由でメッセージが届く。
「部屋アリ。1100EUR(約141,000円)」まるで電報だが、逆に真実味があるような気がしなくもない。私の部屋募集の投稿を見て連絡してきたらしい。
プロフィール画像は黒人系の年配女性がマスクをあごまでずり下げて自撮りしたような感じでリアリティはあったが、過去の投稿が皆無というのは怪しい。
しかし詳細を聞くとすぐに返信があり、やりとりに不審なところもなく、さっそく翌日に内見の運びとなった。
アムステルダム南東の端にあるクラーイェネスト駅に降り立つと、大江戸線を思わせる深さのエスカレーターが私を迎えた。地下鉄ではなく、高所に位置するホームから見晴らす風景は、東京の南砂あたりにそっくりで、イオンの看板があっても違和感がなさそうだ。
Googleマップを頼りに歩く。マンモス団地的な外観のマンションが並んでいる。どれも築年数が浅く綺麗で、きっといい部屋に違いないと期待が高まる。
5分かそこらで目的の家に辿り着く。ドアベルを押しても反応がない。電話をかけて家の前にいると伝えてしばらく、現れたのはカメルーン人のアン。歳は60がらみといったところで、かなり横幅がある。下駄箱があったので靴を脱ごうとすると、土足のままでいいという。
アンについて階段を登る。1階は物置と洗濯機があるきりで、2階がメインフロアのようだ。細い廊下が左右に伸び、複数の部屋が並んでいる。その一つをアンがノックする。
中から長身の白人男性が現れる。「彼は先月イギリスから来たんだけど、オランダが合わないから故郷に帰るんだって。明日出ていくから、部屋をちょっと見せてあげて」
アンにうながされて私は笑顔で自己紹介をしたが、彼の方は心なしかひきつっているような表情で握手を交わす。
彼ごしに部屋をのぞき見る感じで中の様子を伺う。荷造りの衣類なんかが散らばってはいるが、確かに綺麗で広さも10畳程度はありそうだ。
「この部屋はカップルで住んでいた人もいたわ。もう一つ小さめの部屋もあるけど、そっちはシングル専用ね」
もう一つ部屋があるとは初耳だった。案内してもらうと、いわゆる六畳一間といった感じで、部屋がベッドで占拠されている。「こっちは800EUR(約102,000円)」
私はベッドに腰かけて、彼女はそばの椅子に座る。改めて価格や条件を確認する。風呂トイレは共同、Wi-Fi含めて光熱費は込み。値段はもちろん小部屋の方だが、このスペースで絵を描くのは相当に厳しい。
私が迷っていると「会わないと信用できないから1100EURって言ったけど、あなたは日本人だし信用できそうだから1000EURでいいわ」
聞けば部屋を貸す方も貸す方でSCAMに当たることがあるのだという。内見に来て、あちこち写真を撮って、それを使って「部屋あります」などと勝手に投稿に使われるのだそうだ。
彼女はそんな輩が心底許せないらしく、追い返したこともあると熱を込めた。あれこれ話は脱線し、挙句の果てには、オランダ人は結局ユダヤ人で金貸し、信用できないと吐き捨てた。至近距離で、マスクもせずに。
とにかくは広い方の部屋を1000EUR(約127,000円)ということで話がまとまる。しかし、すでに家が見つからない場合の保険としてホテルを2週間ばかりおさえている。しかも返金不可のプランである。それで入居は半月後になるが家賃はどうなるか尋ねると、日割り計算などはできず全額支払う必要があるという。
今すぐにでも家探しから解放されたかった私は、その条件をのむことにした。初月の家賃に加え、退去時に返金されるデポジットが1ヶ月分で、初回の支払いは計2000EUR(約255,000円)。
それから、私にとって最重要である住民登録に必要な賃貸契約書を用意してほしいと頼むと、信じられないことに普段そんなものは用意していないという。
「ここは私の家よ。自分の目で相手を見て信用したら貸す。それだけ」こんな時代に素晴らしき熱いハートの持ち主であることは認めるが、行政は心と心で通じ合えない氷の世界なのである。
私は事情を説明し、ビザ取得のためにどうしても紙の賃貸契約書類が必要であることを伝えた。聞くところによると、カメルーン人など、アフリカ系の人々は概して契約の類が苦手らしい。渋る彼女を説き伏せて、ようやくのことで用意してもらえる手筈となった。
3日後、私は再び書面での契約のためアンの家を訪れた。契約は即日開始になるから、少しでも荷物を運び入れておいた方がのちのち楽だろうと、絵が入っている大きな手提げバッグを持参した。
雨の日だった。ドアベルを鳴らし、アンに鍵を開けてもらう。「靴、濡れてない?」濡れているなら脱げということで玄関先で靴下になり、2階へ上がる。
これから自室となる私の部屋で、彼女と対面して座る。私がいの一番に契約書のことを聞くと、大丈夫、用意できているという。私は心底ホッとした。
そして彼女は机の上に契約書を広げた。それを見て唖然とした。全部手書きなのである。「パソコンなんて持ってないから、手で書いたわ」悪びれる様子もなく平然という。
戸惑うどころではない私を尻目に、「ちゃんと書いてある」彼女は自信たっぷりに言う。そりゃあそうだろう。どこの物好きがA4用紙2枚に渡って手書きで契約書なんか作るものか。
彼女は構わず、契約書の読み合わせを始めた。まさしくミミズが這ったような字で、カメルーンだかオランダだかのネイティブでも読むのは至難であろうと思われた。
「私、アンは、○○に部屋を1000EURで貸すこととし……」指で指し示しながら読み上げていく。ご丁寧に氏名を書き入れるスペースまで用意されている。区切りごとに「OK?」と聞いてくる。根本的にOKではないがOKと言う他ない。私はその内容よりも、これが行政的に有効なのかどうか、そのことばかり考えていた。
内容は、確かにまともだった。しかし、これが有効だとはとても思えなかった。とはいえ契約書には違いないわけではあるし——逡巡というか混乱する私に、彼女は言った。「じゃあ、ここにサインして」私はもはやどうでもいいやという気持ちになって、言われるがままにサインを書き入れた。
が、はっきり言ってクソ汚い手書きの文章中に私のクソ汚いサインを入れて、もはや何がなんだかわからない状態であった。後日見たら、当の本人でもサインの箇所を見つけるのに苦労するだろう。
オランダで家を探して見つけるまでの話 全5+1回- オランダで家を探して見つけるまでの話(1)
- オランダで家を探して見つけるまでの話(2)
- オランダで家を探して見つけるまでの話(3)
- オランダで家を探して見つけるまでの話(4)
- オランダで家を探して見つけるまでの話(5)
- オランダで家を探して見つけるまでの話(番外編)
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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