その埋められない溝を覗く者(5)
2020/08/19
「真田さん、いま、何歳だっけ?」
互いに言葉もなく、黙々とレバニラで白飯をかき込んで半分くらいを消化したころ、ふっと箸を止めて社長は言った。
「え、と、31……いや、もうすぐ、来月で32才です。」
「そう。32才、か。あのさ、おれはね、別に真田さんの生き方を否定はしないよ。残業はしたくない。いつも定時で帰りたいならそれも結構。別にいいと思う。でも、この先、真田さんのスタンスって、絶対につまづくと思うんだよ。」
「まあ、いつかは、そういうときがくる気はします。」ぼくとしてはまったくそうは思わないが、口先だけは同意しておいた。だいたい、つまづいたらつまづいた時に考えればいい話だし、そもそもつまづいたからなんだというのだ。殺されるわけでも死ぬわけでもなし、せいぜいが、たまにこうやっていびられて胃が痛い程度のものではないか。しかしこういう人、つまり、仕事を自分の人生の基盤として一生懸命真面目に働いている人、もっと言えば、有限に違いない自分の人生時間を「仕事だから」という思考停止の一語でもって無限に捧げられる人にとっては、ぼくのような人間は許せないのだ。いや、許せないとまではいかなくとも、本当に理解ができないし、不思議で仕方がないのだろうと思う。
「だろう? そう思うならもう少し、生き方ってものを考えてみてもいいんじゃないかと思うよ。と、彼女はいるんだっけ?」
「いや、今はいないです」不自然に”今は”に力がこもってしまう。同時に森井さんの顔と身体とセックスの場面が脳裏をかすめる。社長、言っときますけど自分、決してモテないわけじゃないんで。つい先週も普通にセックスしてますし女に不自由なんかしてないんで、そこんとこ、重々よろしく。そう、彼女が欲しいけど居ないのではなく、あくまでもいらないから作っていないだけなのだということを言外に伝えたくて、思わず強調してしまったのである。
「そうか。でもまあ、まだ若いんだから、彼女ができることもあるだろう。その時、もしも、真田さんがね、その女性と結婚したいと思ったら、どうする?」
「そりゃあ、まあ、その時は、したいんだったら結婚するでしょう、ね」
「真田さんの今の働き方で、結婚できると思う? いや、結婚できたとしても、ちゃんとした生活を送れると思う? 1年や2年じゃない。老後まで、そう、40年くらいだ」
「う、ーん。まあ、その時になってみないとわかりませんが」ぼくは、社長が何かしらを諭したいということだけは察した。しかしそれは、どう考えたって無意味なくだらない能書きであろうこともまた、容易に察しがついた。
「人生は、長いよ。真田さんが思ってるより、ずっと長い。」
せいぜいがぼくより一回りあまり年長、40代後半に過ぎない社長に言われても、あまり説得力はなかった。ぼくは縦でも横でもなく斜めに首を動かしながら、馬鹿馬鹿しさに辟易した。なんというか、社長の言うことはわかる。ぼくだってまるきり馬鹿というわけでもない。自分のことだって未来のことだって考えてる。しかし、大前提として、ぼくと社長とはまったく別の人間なのだ。しかも、あまりにも価値観のかけ離れた人間だ。少なくとも、この社長がぼくの人生を左右するとは、現時点ではまったく思えない。ぼくにとってこの社長は、影響力ゼロなのだ。
内心毒づくぼくの一方、社長は、持論の開陳に興が乗ってきたのか、熱を込めて続けた。「今はまだ若いから、なんとかなるかもしれないが、これから、どんどん歳を取っていく。嫌でも歳を取っていく。その時、何も身についていなかったら、年長者の強みとしての高いスキルを持っていなかったら、若い人に負けるしかない。負けるだけならまだいいけど、職を失うかもしれない。それこそ食うにこと欠かないとも限らない。真田さんにはまだわからないかもしれないけど、歳を取ってからの貧乏ほど辛いものはないんだよ。おれはね、真田さんが今のまま、自分の我を押し通すだけ押し通して歳を取っていったとしたら、近い将来、今の自分を後悔する日がくると思うんだよ。」
「はい」だとも「そうですか」とも「わかりました」とも、なんとも答えられなかった。どのように答えてみたところで、一切は場違いに思われた。ぼくはただ押し黙って、置くタイミングを逃した箸を両手で水平につまんで、ぎりぎりと歯ぎしりするようにこすり合わせていた。レバニラの汁でぬらぬらと光る箸先を、未来を見透かせる水晶玉だとでも言わんばかりの熱心さで凝視していた。社長の言葉は、ぼくの精神を蝕む忌まわしい呪文のようだった。
確かに、ぼくはこの社長が経営している会社で、雇ってもらっている。ぼくの提供する労働の対価として、毎月お金をもらい、それで家賃を払い、光熱費を払い、飲み食いをして生活している。しかし、それはこの会社に限ったことではない。どこの会社だってできることだし、どこの会社だって同じで、当たり前過ぎることだ。そもそも、東京に星の数ほどもある弱小企業の一つに過ぎないこの会社における自分の評価の高低が、自分の人生において、いったいなんの足しになるのかと思う。駄目なら駄目で大いに結構。そこまで文句があるならクビにすればいいだけの話ではないか。実際、転職先なんて腐るほどあるのだ。大手ならばいざ知らず、どこの弱小企業が求職者の前職での評価をリサーチするというのだろう。費用対効果を考えれば、それこそ骨折り損もいいところである。つまり、面接の際の口先三寸で渡っていけるのがこの世の中なのだ。というか、この社長にしろ、ぼくの口先三寸にうっかり内定を出してしまったくちではないか。
「絶対に、後悔すると思う」社長は、血判でも押すような重々しさでそう付け加えて、くっと、水を酒のようにあおった。それから、1分、2分、とてもじゃないがレバニラをモグモグやれたものではない沈黙が流れた。と、社長は、すっと伝票をつかんで席を立った。ぼくは慌てて、ごちそうさまでしたと口ごもりながら社長に続いた。ぼくのも、社長のも、レバニラはまだ半分くらい残っていた。中華スープも、ザーサイも、けっこう残っていた。杏仁豆腐に至ってはまったく手を付けていなかった。ぼくは単純にもったいなく思ったが、あくまでもこれも仕事の内なのだとあきらめた。
続く
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広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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