その埋められない溝を覗く者(3)

最終更新: 2020/08/19

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南武線の谷保から終点の立川まで行き、中央線に乗り換え四ツ谷へ。さらに南北線を乗り継ぎ、つつがなく安全に溜池山王に着いたのは10時37分だった。繰り返すが、安全な運行は仏陀のおかげでもトマスのおかげでもなくJRと東京メトロのおかげである。

ぼくの仕事はフレックスタイム制とはいえ、完全に遅刻である。コアタイムは10時~15時なのだ。しかし最近はまったくといっていいほど働く気もやる気も何もないので、そんなことはどうでもよかった。

とはいえ一応は早足で、冗長な構内をくぐり抜けて地上に出る階段を駈け上る。地上が近づくにつれ、雲ひとつない青い空が覗く。今日はやけに天気がいい。とはいえ、デスクワークの自分には天気などほとんど関係がない。行き帰りの駅までの道のりと、昼休みに外に出る時に傘をさすのが面倒なくらいのものである。

対比として、仏陀とトマスの境遇を思った。肉体労働者は憐れだと、ぼくは常々思っている。雨が降れば濡れそぼり、照れば干からび、雪でも降ろうものなら凍えなければならないのだ。何がどうなって、彼らは肉体労働に従事するに至ったのか。リストラなどに合い、食うためには止むを得ない選択だったのだろうか。もっと遡れば、小中高と勉強を怠ったからだろうか。それとも家庭環境か、どうか。まさか、信念で、夢だったというわけではあるまい。

2014年の現在、この日本のどこに将来の夢は交通整理や土木作業員などと語る人間がいるのだろうか。もちろん、この日本の社会の発展を実地に支えているのは、わかりやすく額に汗して働く肉体労働者たちだということは確かだ。しかし、だからといって、その仕事が素晴らしく、崇高で、尊い仕事だなどとは、正直、誰も思っていない。あくまでも社会の最底辺の人間がやる仕事だと皆思っている。かの福沢諭吉は職業に貴賎なしと言ったが、いざ自分の娘に恋人ができたときには「身分違いだ」と憤慨したのである。階級、差別、これはいつの時代にも厳然と存在する。ただ単に現代という時代は、それが明文化、あるいは公言されていないというだけの話である。3K、すなわち「きつい」「汚い」「危険」な肉体労働。そういう汚れ仕事は、できることならば未来永劫御免こうむりたいと思っているのは、決してぼくだけではないはずだ。

そうしてぼくは、デスクワークをしている自分をとても好ましく思う。偏差値なんて無いも同然の私立の男子校、それから金ばかりがかかる三流の私大を卒業という、勉強ができるできない以前にそもそもやってすらいない人間であるにも関わらず、常に適温に保たれたオフィスで日がな一日座ってパソコンに向かい適当にカタカタやってりゃいいという幸運。それは確かに幸運だと思う。ある仏典には、極楽とは暑さ寒さのないところだと書かれているという。だとすれば、冷暖房完備のオフィスは極楽浄土そのものではないか。

オフィスまであと少しのところで、ぼくは鞄に常備しているマスクを取り出した。一週間分の7枚入りで、個包装になっている。封を切って、マスクを付ける。オフィスに到着すると、入口わきの壁面にかかったタイムカードを通した。ジジジと、ATMで記帳するときと同じ音で、10:44と打刻されて吐き出された。

「おはようございます」ぼくはやや力なく言った。この会社の全社員である5人からばらばらと同じ言葉が返ってくる。いや、今日は6人だ。珍しく、すでに社長が来て座っている。社長はいつも夕方あたりにならないと来ないのだが。ぼくは、どうせ社長などまだ来ていないと踏んで、当然のように遅刻してきたことにわずかの気まずさを感じつつ、自席に着いた。

「あれ、真田さん風邪ですか?」ぼくを見て、40代後半のおばちゃんWEBデザイナーである村松さんが聞いてきた。

「いや、別に風邪というわけじゃないんですけど、ちょっと喉の調子が悪くって」眉間にしわを寄せて、ちょっと苦しげなふうを装って答えた。むろん、マスクは単なる演出である。具合が悪そうにしておけば、遅れてきたことも、その他もろもろも、なんとはなしにおとがめなしになる。つまり、免罪符である。もっとも、最近では贖宥状と言うらしいが。

「気をつけてくださいよ。いまインフルが流行ってるんで。この狭いオフィスじゃすぐに蔓延して全滅しちゃいますから」

村松さんはそう言って、ぐふ、と含み笑いをした。何がおもしろいのかわからない。とはいえ、世のだいたいのおばちゃんの行動はとりとめもなく、あまりにも自由である。しかし、こと村松さんに関しては、そういう一般論をはるかに超えて、頭のネジが3万本くらい足りないか12万本くらい余計に付いている人だと思っている。ぼくは適当にうなづいて、PCを立ち上げた。

とりあえずメールをチェックする。ほとんどは「新規通販サイトのバナー制作の件」など、WEB制作依頼のメールである。と、見慣れない件名のメールがあった。「臨時面談」。社長からのメールだった。

真田さん
おつかれさまです。
本日のお昼ですが、昼食がてら、業務について、また今後のことなどもろもろを話したいので、臨時に面談を行いたいと思います。
制作スケジュールなどを調整していただき、何時ごろからが良いか、連絡ください。
私は何時でも大丈夫です。
東松

ぼくは思わず狼狽した。入社して半年ほどになるが、面談など初めてである。きっと、良くないというか、おもしろくない話だろうということは、明らか過ぎるほどに明らかだった。ああもう面倒くさいとうんざりしつつ、ぼくは一通りスケジュールを確認し、13時30分からでお願いしますと返信した。

続く。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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