その埋められない溝を覗く者(4)

  2020/08/19

13時30分を数分回ったころ、社長に声をかけられた。ぼくはパソコンの画面をロックして席を立った。エレベーターに乗り、9階から1階まで下りる。歩きながら、社長に何が食べたいかと聞かれたが、どうせ飯がまずくなる話をするのだから、なんだって構わなかった。あるいは何も食べないほうが、割り切ったビジネスライクで結構ではないか。社長としては、食事の場を借りて雰囲気を和らげようという心づかいかもしれないが、それこそ余計なお世話だ。というか、そもそもぼくは弁当を作ってきているのだ。もちろん適当な野菜炒めに過ぎないが、それでも弁当は弁当に違いなく、せっかくの弁当が無駄になるではないか。面談をするならするで、事前に言えよと思ってしまう。

ぼくのあいまいな返答で連れて行かれたのは、赤坂駅にほど近い中華料理屋だった。ランチタイムのピークは過ぎているのでそれほど混んではいないが、それでもほとんどの席はスーツあるいはビジネスカジュアルの男女で埋まっていた。IDカードを首からぶら下げている人が多いが、ぼくには、というか現会社には無縁のものである。なんといっても、IDカードは外部の人間の侵入を防ぐセキュリティのためであって、社長含めて6人しかいない弱小企業に必要のあろうはずがなかった。

席に通されて、日本語のぎこちない中国人女性にメニューを渡される。社長は先にどうぞと、ぼくにメニューを勧めた。すいませんと頭を垂れつつ、メニューを開いた。ランチタイムのメニューではあるが、最も安いレバニラ炒め定食で880円であった。ぼくは決めましたと言って、社長にメニューを手渡した。

「何にしたの?」社長はメニューを眺めながら聞いた。ぼくは「レバニラ炒めです。好きなんですよ」と答えたが、それほど好きなわけでもなかった。単に一番安かっただけだ。つまり遠慮しておいたのだ。とはいえ、一番高い四川風スペアリブ定食でも1,380円だったので、たかが500円の差ではある。しかし、その500円が重要なのだと思う。いや、一番安いものを選んだことこそが重要なのだ。いまからおもしろくない話をするに当たって、少なくとも一番安いものを頼む程度には恐縮しているというか反省しているということを示すためのポーズなのだ。とはいえ、いまさら500円の気遣いで状況が好転するはずもないのだが、人間たるもの最後まで諦めないということが肝心なのだ。とかなんとか言って、すでに完全に諦めてはいるのだが。

「ビールでも飲む?」社長は冗談めかして言った。「いやいや、大丈夫です。」ぼくは笑って答えたが、内心はくすりとも笑えなかった。じゃあ、おれもレバニラにするかと、ひとりごちて社長は店員を呼んだ。中国人女性は先ほどと同様ぎこちなく注文を復唱し、それからスーパーボールがやたらめったら飛びはねるような勢いの中国語で厨房へと伝えた。

「最近、どう?」唐突に社長は切りだした。ぼくは一瞬詰まって、水を含んでから言った。「まあ、まあ、ですかね。ふつう、です。」社長もぐいと水を飲んで、「ふつう、か」とグラスを置いた。ガツッと妙に乱暴な音が立って、ぼくは思わず萎縮した。

「先週末の、ヴィオラはどうだったの?」

ヴィオラとは大手の化粧品会社で、うちはその通販サイト制作を定期的に請け負っているのであった。そしてぼくはヴィオラの担当ということになっている。

「一応、村松さんに金曜に提出してもらってます。ぼくはちょっと私用があって、20時過ぎに上がったんですけど」

「ああ、それはおれにもccでメールが来てるから知ってる。23時過ぎだった、かな。村松さんがヴィオラに納品のメールしてたよね。だけど、それって、本来は真田さんがする仕事だよね?」社長は、笑っているような、笑っていないような、どっちつかずの表情で言った。

「まあ、それは、そう、そうですね。わかってます。ただ、どうしても外せない私用があったんで、止むを得ず村松さんにお願いしたんです。というか、そもそも本来なら19時には終わってたはずなんです。金曜の朝に、村松さんにデザインの進捗を確認したんですが、18時までには終わるということでした。そのスケジュールなら、最悪18時からぼくがチェックして部分的な修正を加えても、余裕で19時には終わるはずだったんです。」

社長はゆっくりと吟味するようにうなづいている。「それで?」

「それで、18時になって、村松さんにできたかどうかを聞いたら、できてないと。じゃあ、あとどのくらいでできるのかと聞いたら、2時間くらい見てほしいと。つまり20時です。おかしくないですか? 18時にできるって言ったくせに20時ですよ? 正直、村松さんの仕事のやり方は、ちょっとあり得ないですよ。」

「まあ、まあ、それはわかる。おれも村松さんが仕事ができるとは全然思ってない。でも、村松さんが仕事ができない人だってことは、いい加減、真田さんもわかってることでしょ?」

「それはまあ、そう、ですね。でも、村松さんにしても、もう半年以上ヴィオラの案件をやってるんですから、というかデータの流し込みに近い単純な案件なんですから、そろそろまともにこなせたっていいし、むしろ余裕でできるようになっていい頃だと思います。まあ、とはいえ、村松さんが普通じゃないのはわかってますし、それを加味してスケジューリングしなかった自分にも落ち度があったとは思いますが……」

「だよね。真田さんの言ってることは、正直、言い訳だと思うよ、おれは。当たり前だけど、この世にはできる人もできない人もいる。当たり前だよね? だったら人間的な特性も含めてスケジューリングするのが仕事というものじゃないの?」

「まあ、そう、そう、です、ね。おっしゃる通り、です。」ぼくはいわゆるぐうの音も出ないといった感じでうつむいた。

社長は腕組みをして、ふんと鼻息を立てて反り返った。「まあ、過ぎたことを責め立てる気はないけど、そもそも、さ、私用ってなんだったの?」

「ああ、ええ、私用というか、まあ、大事な用事で……」

「もちろん、プライベートにまで立ち入る気はないけど、言い方は悪いけど、仕事放り出して帰るぐらいなんだから、おれとしては、それなりの用事であってほしいとは思っちゃう、かな。」

「まあ、そう、ですね。ええ、はい」ぼくは言い淀んで、それから、色々なもっともらしい回答が頭を駆け巡った。

「いや、実は、まあ、他人にとってはどうでもいいことだと思いますし、それで、すごく言いにくいんですが……」

「うん。なに?」

「ええ、まあ、金曜の夜は、ですね、友人の、いや、とても大事な親友の、誕生日会だったんです。」

ぼくはそう答えている途中で既に、どうしてぼくは正直に言っちゃうんだろうなあと、すっかり自分でも呆れてしまっていた。だって、病院に行かなければならなかったとか、親類縁者の不幸だとか、個人的に請け負っている仕事の打ち合わせがあったんだとか、なんとか。それっぽい回答なんていくらでもあったのだ。そう、あったはずなのに、ぼくは何故だか馬鹿正直に答えてしまったのだった。何か、正義感というか、いや、普通に、いやいや、全然普通ではないけれども、親友の誕生日会と仕事と、どちらが大事かと問われれば、そりゃあまあ、即答で親友の誕生日会ではなかろうか。いや、いや、いや、一般論としては明らかに間違っているのはわかっている。だけど、ねえ? 人生80年というトータルで考えたとき、どうでもいい仕事なんかに拘束されて時間を浪費するよりも、親友の誕生日会に出席して楽しく過ごしたほうが、百倍、いや百万倍、もっと、百京倍くらいは有意義なことではないか? ぼくは間違っているだろうか? なんて仰々しく問うてはみたものの、まあ、正解とか間違いだとかいう以前に、社会人失格だということだけは自分でもよくわかってる。

ぼくの答えに、社長は「えっ」という顔をして、ゆうに2、3秒は固まっていた。それから、喜怒哀楽のすべてをごちゃ混ぜにして団子にしたような顔をして、ああ、そうと、溜息をつくように言った。

その時、「おまたしましたぁ」と、店員の中国人女性が、両手にレバニラの皿を抱えてずかずかと割り込んできた。社長とぼくの前に、ガンッ、ガンッと乱雑にレバニラを置いた。続いて、白飯、中華スープ、小鉢、ザーサイ、杏仁豆腐を、これまたやっぱり、ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッと、テーブルに埋め込みでもするかのように並べた。そして、ふんわりというか、どんよりというか、とにかくはあまりにもこの場にそぐわない下世話なレバニラの匂いが、ぼくと社長の間に張りつめた空気を茶化すように漂った。社長は、眉をしかめつつ、食おうかと、ぼくに食べるよう促した。

続く。

各回リンク:その埋められない溝を覗く者 (1)(2)(3)

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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