エロ本は、茂みにありて拾うもの、そして悲しく濡れるもの【後編】

  2020/08/19

こちらから読み始めてしまった方は前回の記事「エロ本は、茂みにありて拾うもの、そして悲しく濡れるもの 【前編】」、「エロ本は、茂みにありて拾うもの、そして悲しく濡れるもの 【中編】」の順にお読みください。

季節は移ろい、蝉の声が日ごとに盛んになっていくようなころでございました。

土曜日でした。昔の言葉で言えば半ドンと呼ばれる日で、授業は午前中で終わりでした。

それにしても天気のいい日でした。ここまで陽が照れば暑さも心地よく感じられるほどでございました。

頭が非常によろしくなかったわたくしは、自転車で一時間近くかかる低能な私立男子高校に通っておりました。そのため、美術部で文化系でしたが、行き帰りは十分に体育会系でありました。

汗だくになって、正午を一時間ほど回ったころ、自宅に戻って参りました。

スポーツ後のような爽やかなテンションで、ただいまーと叫びながら玄関をかけ抜けました。たったったったった。おかえりーという母の声を、階段をすでに何段も上りながらわたくしは聞きました。たったったったった。お昼ごはんを食べるまえに、三階の自室に荷物を置きに行くのが常でした。たったったったった、たったったったった。

たったったったった、がちゃり。ドアを開け部屋に入ると、瞬間、すうーっと、とても涼しい風がわたくしの汗まみれのニキビ面をなでました。

窓が大きく開け放たれておりました。そこから青い空に浮かぶ入道雲と、濃緑の極楽寺とが窓枠で切り取られ、作品名「夏」といった感じで納まっておりました。窓辺には布団が干されておりました。

ああ、ほんとに今日は天気がいいなあ。わたくしはあらためてそう思いました。

少し伸びをして、さて、と荷物を置きました。もう一度窓外を見やりました。素晴らしい天気。そうそう、こんな日は布団も干して、ねっ、と、って、はっ、えっ、あっ、ふっ、ふ。

わたくしは、頭がちぎれそうなくらい、布団を二度見、三度見、四度見しました。

母が、わたくしの部屋の掃除をしてくださっていたのです。優しい母が、気のきく母が、冬用の布団も干してくださっていたのでありました。

わたくしの息は完全に止まっておりました。わたくしは海老ぞりになっておののきながら、ぐわっと、今朝まで布団が積まれていたところに飛びかかりました。

エロ本がおりました。どこにも行かずにちゃんとおりました。ぽつねんと、申し訳なさそうにひれ伏しておりました。しかし表紙の女の子だけは、ひどく場違いな感じで弾けんばかりに笑っておりました。

徐々に頭の中がかすみがかり、白んでいきました。それから数秒後、ようやく我に返り、やっと理解が追いついて参りました。

この部屋で起こっただろう出来事を想像しました。母の行動を想像しました。こういうとき、ふつう、親はどういう行動を取るだろうかと、想像しました。それは三つあるように思われました。

その一、見て見ぬふりをする

その二、教育の機会として話し合う

その三、悪だとして叱りつける

具体的には、次のようなことになるだろうと思われます。

その一、「………………………最近、学校のほうは、どう、ですか?(しこりは残るため、往々にしてしばらくはぎこちない会話になる)」

その二、(エロ本を前にして対峙し、こういう話は男同士に限ると言って父の出番)「そうか、おまえもこういう本を見る年頃になったんだなあ。しかしだな、こういう本の中身はな、あくまでもお芝居なんだよ。わかるな? この内容を真に受けてはいけないよ。女性には優しくしなくっちゃな。な?」

その三、「あんたあええ加減にしんさいよ!バシィッ(エロ本を床に叩きつける音。子供は床に正座させられている)!なんねえこれは!いやらしい!ほんまいやらしい!学生なんじゃけえ勉強するんがほんまでしょうが!それがなんねえあんた!こんないかがわしい本を!ええ加減にしんさいよ!バシィッ(エロ本を拾い上げてもう一度床に叩きつける音)」

おそらく大半の方にご理解ご納得いただける三つの選択肢だと思います。しかし、わたくしの母はこの三つのどれでもありませんでした。

あなたのエロ本を見つけました、というサインだけを残すという大胆な新手法です。

これをわたくしは「神の告知法」と命名したいと思います。

ごはんよー。

その時、階下から神がわたくしをお昼ごはんに呼ぶ声がいたしました。

わたくしは返事をすることができませんでした。

兄ちゃん、ごはんよー。

妹ができてからは、わたくしの名前は消滅し、ただ「兄ちゃん」と呼ばれておりました。逆手に取って「兄ちゃんて誰のことー?」と言い返したかったのですが、しかし、もしも「エロの兄ちゃんのことよー」と返されたとしたら、わたくしは颯爽と三階の窓より飛び降りる他はありません。結局わたくしは、いま行くー、と答えるしかありませんでした。

たん、たん、たん、たん、たん。足取りはひたすらに重く、気も重く、何より気まずくて、逃げ出したくてたまりませんでした。

たん、たん、たん、たん、たん。最後の審判に引き出される、罪人のような心持ちでありました。

たん、たん、たん、たん、たん。たん、たん、たん、たん、たん。たん、たん、たん、たん、たん。

裁きの間よろしくダイニングに入り、着席しました。暑いねえと、神がわたくしに笑いかけておりました。おそらく、でございます。

というのも、一切その御顔を見やることができなかったのでございます。あー、とか、うー、とか、ただただ返事とも言えないような唸り声を漏らすだけで精いっぱいなのでありました。

忘れもしません。その日はそうめんでした。

神と二人で、向かい合って食べました。エロ本の話がいつ出てくるのかと、わたくしは気が気ではありませんでした。天井の角だとかテーブルの醤油だとかを見たくもないのに凝視しておりました。

わたくしはひたすらに目を逸らしておりました。神とわたくしをへだてるのは、深いガラスの器、氷水に浮かべられた白いそうめんただひとつでした。

神、わたくし、神、わたくしと、交互にすくっては、黒いつゆにつけ、すすりました。無言の、しかし、そもさん、せっぱ、魂の禅問答を行っているかのようでもありました。

ずずっ、そもさん、せっぱ、布団、干したよ、ずずっ、そもさん、せっぱ、なにも、言うな、ずずっ、そもさん、せっぱ、エロ本、あったよ、ずずっ、そもさん、せっぱ、なにも、言うな。

葱も入れました。しょうがも入れました。わさびも入れました。しかし、なんの味もしませんでした。ただ、人間の一生の醍醐味らしきものだけは、喉の奥、胸の奥で、しみじみと、そしてどこまでも広がっておりました。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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