善善偽善
それは大晦日の昼下がりだった。教会でのミサを終えて外に出ると、一人の男に声をかけられた。
見覚えがあった。と言っても、知り合いではない。近くのコンビニで、たった一度すれ違ったことがあるだけだった。だが、私でなくとも覚えていて忘れないだろう。
彼は全身に刺青、いわゆるタトゥーが入っていて、それは顔面の全体に及んでいた。子供ならきっと「刺青人間」と指差すだろう外見なのであった。
足を止めた私に、彼は近づいてきて、言った。仕事を失って、食べるものもない。だから、3ドルでいいからくれないか。
つまるところ物乞いである。どこにでもいると言えばそうだが、まだ三十かそこらのようだし、シンガポールではまず見ない。ともあれ、彼はカトリック教会から出てきた私のことを、きっと慈悲深いと踏んで声をかけてきたのだろう。
あいにく、私は自他ともに認める冷たい人間だ。キリストはいわばその隠れ蓑のようにさえ見える。にも関わらず、その時の私は、なぜだかさっと財布を取り出して、一枚、10ドル札を渡した。
彼はこれといって表情も変えずに受け取って、一言「Thank you」と背を向けた。ふと、異国らしい汗臭さが鼻をついた。私はなんとなく、その背に「God bless you」と添えた。彼は振り返ると、しおらしく頭を下げた。
彼を見送って、我に返る。なぜ私はそうしたのだろう。いましがた散々したり顔で十字を切ってアーメンだかなんだかやってきた身で、ほんのわずかの施しもできないなんて、あまりにも偽善的ではないかと案じたのかもしれない。
しかしその一方、私は彼の身の上に毛ほどの同情も覚えていない。彼の話は嘘だろうし、その真偽にすら興味がない。つまり、私のやったことは、心のない単なる機械的なアクションであって、キリスト的な愛や憐憫とはかけ離れたものでしかない。そもそもこの手のいかにもな行為をこうして公にするのもまた、ひとつの浅ましい偽善に違いない。
いったい、真の善とは何だろうか。ひとしきり私のさまざまを振り返ってみる。私には常に裏があり、思惑があったのではないか。真の善などというものは、私のどこをどう探しても見つかる気がしない。
とかいうことを書くと、誰かやさしい人が私の善なる部分に言及してくれるだろうこともわかっていて、だからこそわざとらしく書いている節もある。
ゆえにやっぱり私は偽善の人で、しかしこのような告白は私にある善を図らずも証明するきらいがなきにしもあらず、なんて書いた途端にまた力強く偽善が立ち上がってきて、もう、善とか偽善とかいうのは全然、私というか人間には手に負えない代物だからこそ、どうか神様南無阿弥陀仏なんてやってお茶を濁すほかないのかもしれない。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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