適当なときに死ねること
2020/08/22
最近、慢性的な抑鬱状態がとまらない。やることをやってもどこかむなしい。夢ふくらませても、がんばっても、すぐにふっと我に返って、悲しくなる。悲しい? いや、どちらかというと、むなしい。
クーラーはつけず、扇風機のみで、上半身裸になって、つまり岡本太郎スタイルで汗をだらだら流しながら絵を描いているのだが、小一時間もやっていると、しゃがみ込みたくなる。しかし踏みとどまって、両手をひざについて、これはつまり体育会系的小休止のポーズで、わざとらしくはぁはぁぜぇぜぇ呼吸を荒げてみたりする。
そうしていると、どこからともなく涙っぽいものがこみ上げてくる。
なんなんだ。どうなってるんだ。何をやってるんだ。どこでどう間違ったんだ。それから、自分はいったい、どうなるのだろう。
今までのいろいろを思い出して、反芻して、そしてネガティブの極みの定番を思う。「こんなはずじゃなかった」。
そうして夜、達成感も何もなく、また一日が消え去ったという、はかなさといおうか、苦々しさといおうか、ああ、願わくば大学あたりに戻りたいなとか、いや、一番の問題は、「"今ここ"にいる必然性が無い」ことなんだよ、とか、なんとか、とにかくはやっぱり抑鬱的な夜をひとりやり過ごす。
そこに拍車をかけるのは最近のマイブームである(いや、ずっとブームだが)死に関する本である。
ぼくの中で、いまダントツですばらしくおすすめなのは、「日本人の死に時—そんなに長生きしたいですか (幻冬舎新書) 久坂部 羊」という本である。これを晩酌しつつ読み進める。そしてぼくはいちいち、あ〜、確かにな〜、まじでそう、ほんとそう、とか、ひとり言を言いながら死のことを、そこに至る老いのことを考える。
月並みな言い方だが、価値観が揺さぶられる。著者はただの医者ではなくベストセラー作家でもあるので、文章がうまい。ただ事実を並べるのではなく、どのように並べれば、構成すればよりよく伝わるかを心得ている。
1990年代後半あたりににPPK(ピンピンコロリ)という言葉が流行した。その言葉の軽妙さもあって、老いを肯定的に受け止める空気を醸し出すのに一役買った。
しかし現実は、ピンピンコロリで死ねるのは宝くじに当たるよりも難しいという。
その根拠と実例は本書に譲るが、まったく、医療の発達は、ここまで人間の自然な死を歪めてしまうものかと嫌でも深く考えさせられる。
昔ならあっさり死んでいたいたものが、"ヘタに"生きながらえるようになってしまった。
それはいったい誰のためなのだろう。それで誰が幸せになるのだろう。
長生きしたいと思うのは結構だが、つくづく、人間は適当な時に死ななければならないと思う。
「いつまでも元気で長生きしてね」なんてお定まりの言葉は、それがほんとうに"元気で長生き"できればけっこうなことだが、元気で長生きできる人は多くないのが現実だ。
人生は60年なら60年と思い定めて、その60年で自己の身も心も完全燃焼させるくらいの計画的な人生と、能動的な死が必要なのではないか。
死の恐怖と長寿への欲望だけで、だらだらとこの世のごくつぶしをする人生じゃ、生きていたってしょうがない、と思う。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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