日常のための日常

最終更新: 2017/08/22

中庸。つまり真ん中。ほどほどに不幸で、ほどほどに幸福。

劇的なことは何も起こらないが、劇的なことが何も起こらないということは、ある意味、劇的なことなのではなかろうか、なんて。

”ある意味”という言葉は実に便利な言葉だ。空疎な言葉を、適当に味付けして、意味深にしてくれる。

ある意味天才、ある意味富豪、ある意味エリート、ある意味美談、ある意味、ある意味、ある意味。

そうして昨夜は、ある意味うるわしい夜だった。

ここで用いるうるわしいとは、「人と人との間柄が良好なさま。仲がよい。親しい。また、むつまじい。(goo辞書より)」という意味で、である。

樋口夫妻の家を訪れて、いろいろと話した。寄せ鍋を振るまってもらい、酒を飲んで、しゃべって、笑った。

しばらく会わないうちに(半月ほどだが)、彼らは急に「夫婦」という言葉が似つかわしい雰囲気を醸し出していた。

以前はあくまでも「恋人」であり「男女」でしかなかったのが、ひとつ上の、「夫婦」という段階へと昇華しているように思われた。

何がそうさせるのか。結婚という契約を結んだことのない自分には想像することしかできないが、きっとそれは「安定」なのだろうと思う。

恋愛は、多かれ少なかれ、遠藤周作の言う「安定は情熱を殺し、不安は情熱を掻き立てる」という法則に終始するものなのだと思う。

そして恋愛の先にあるだろう愛は、これまた遠藤周作の言う「捨てないこと」に尽きるのだと思う。

もっとも、それはごくありふれたキリスト教的価値観の体現ではある。健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも……捨てない。

怒っているときも、笑っているときも、夫婦というものは、ある一つの場所に帰ってくる。黙っていても、彼、彼女は帰ってくる。

それは、限りない安定である。安定の中で、劇的なことは何もない。空気、関係性の弛緩はとめどない。タンを吐き、屁をこくようにもなる。お互いのことがまるで空気であるかのように、あらゆる痴態をさらすようになる。

それは、傍目には醜悪とも映る。しかし、それが夫婦であり、家庭と呼ばれるものなのだ。そういう次元にしか、夫婦というものは存在しないのだと思う。

ぼくは、親友の「夫婦化」を目の当たりにして、あるいは初めて夫婦の何たるかを知ったような気がする。

お互いの存在が、既成事実になる。当然になる。つまり、空気のような存在になる。

「空気のような存在」という使い古された表現を用いるとき、必ず思い出す話がある。

セルビアだったか、戦争で息子を失った母親が語っていた言葉だ。インタビュアーが、息子さんはどんな存在でしたかと尋ねると、母親はこう答えた。

「息子は、空気のような存在でした」

ぼくはこの表現に思わずギョッとした。おそらく大多数の日本人の感覚としては、「空気=無価値」だからだ。しかし、母親は続けた。

「空気のように、ただそこにあるだけで、私を幸せにしてくれる」

夫婦に完成形というものがあるとしたら、おそらく、こういうことなのだろうと思う。しかしきっと、そんな境地に至る道のりは遠く、険しい。ある意味、究極だ。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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