五次元のカプセルホテル(後編)

  2016/04/13

隣の座卓で呑んでいる男のたばこの煙が流れてくる。薄くなった頭髪に、世間の波にへし折られたような猫背で、ガラケーをいじりながら、例のろうそくでの沸騰を試みる番組を見ている。

ぼくも同じ番組を見ている。つまり、同じ時間と空間を共有している。しかし、なんの連帯感もない。生きている次元そのものが違うような気がする。

そういえば昔、父にこの世界は四次元なのだと教わったことがある。幅、高さ、奥行き、そこに時間も入れて四次元なのだという。ぼくは納得がいかなかった。だって、この世が四次元だとしたら、ドラえもんの四次元ポケットは「ふつうのポケット」になってしまうではないか。

フライの盛り合わせが到着する。キャベツの千切りが大目で、器の端にからしが塗りつけられているのが好ましい。アジフライをかじり、ビールで流し込む。おいしいと思う。

テレビに目をやりつつ、先ほどの隣の男を横目でうかがう。いかにもうだつのあがらない風采。何ひとつ成し得なかったのだろう人生が透けて見えるようだ。何が楽しくて生きているんだろうか、なんて、余計なお世話だが、その男には、他人にそういう思考をうながすような、どこか人の気を滅入らせるような雰囲気があった。

未来、こんなひとにはなりたくないなあと思う。間違ってもなりたくない。50代半ばだろうか。まあ、仮に55歳だとしよう。それはぼくの22年後だ。日数にして8030日後。時間では192,720時間後。

十分に数えられる、現実感のある数字だと思う。そう遠くない未来、こんなひとになってしまう可能性に、なんとなく怯える。

たとえば、このひとの今を、中高生あたりに見せたとする。誰だってこんなひとにはなりたくないはずだ。にも関わらず、なってしまった。これから先も、一定の確率でこの種のひとは生じ続ける。このひとを見よ。

グラスビールを呑み終える。店員を呼んで、日本酒を常温で頼む。

「最近のガキは何するかわかったもんじゃない」

ぼくと一番離れたテーブルに座っている三人組の、スキンヘッドにねじり鉢巻をしたおやじが、もうひとつのテレビでやっているストーカー殺人事件を見ながら言う。

「あんなのは、徴兵して鍛えなおしたほうがいいんだ。いや、冗談じゃない。本当だよ。徴兵制が一番いい」

反射的に、まずはおまえが徴兵されてこいと思う。

「甘えてるんだよ!」そう息巻いて、煙をまき散らす。

隣の男といい、このねじれ親父といい、この空間に対する嫌悪感が、のど元に吐き気のようにせりあがってくる。もちろん、ひとのことを言えたくちではないが、このどうしようもない下層民の雰囲気。加えて、この場にいる人間の異常な喫煙率の高さが、下層民の意識の低さの裏打ちとして感じられて、なおいっそうぼくの嫌悪感は増した。

泥酔するつもりだったところを、ぼくは早々に切り上げて、寝床、すなわちカプセルに戻った。

いつものように、ふとんを頭までかぶった。サウナ服に染み付いたタバコの匂いが立ち込めてきて、顔を出した。

映画を見てカプセルホテルに行って浴びるほど飲んで眠りに落ちるという計画に――計画と呼ぶにはあまりにもチープだが――ぼくはあまりにも期待しすぎていたことに気づく。

だけど、映画はよかった。例の、五次元の世界のことを考える。時間が物理的に扱えて、すべての時間が同時に存在する世界。

さっき、映画を見ていた自分がいる。そのまえの、仕事をしていた自分もいる。朝起きたときの自分も、昨日の自分も、一昨日の自分も、一年前の自分も、十年前の自分も、今この瞬間、同時に存在する。というようなことを考えながら、無駄に未来的なカプセルのベッドに横たわっている今この瞬間の自分もいる。

五次元の、六次元の、七次元の、とにかくは、ここではないどこかを思った。今の自分とは違う、ありえたかもしれない自分を思った。今のぼくと何がどう違っていてほしかったのかははっきりとはしないが、とにかくは、別のぼくを、別の人生を思った。

いくら思ってみたところで、今の自分しかありえないことが、しみじみと、心細かった。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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