お好み焼きが作れない

最終更新: 2017/08/22

昨日は1ゲーム、のちランニング、で、後程説明する残飯系お好み焼きを食べながら「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」とかいう映画を半分くらい我慢して見たがあまりのつまらなさに耐えかね時間の無駄だと就寝。そして今朝は4時半に起床し1ゲーム。画像は自画像、制作中の絵、そしてやけに神々しかった今朝の朝日。

さて、なぜだか突如としてブームが到来して連日お好み焼きを作っている。一昨日の夜あたりから三食お好み焼きを食べている気がする。そう、弁当にも突っ込んでしまっているのだ。むろんお好み焼きは"おかず"である。

そんなにも食べまくる理由らしい理由をつけるとすれば、料理の学校に行っているにも関わらず郷土料理もまともに作れないなんて論外ではないか? というような理屈、なのでもちろん広島風、というか広島流。いや、広島流じゃけえの、まで入れよう。このあたり、微妙にニュアンスが異なるので譲れない。

しかしまったくうまくできない。クックパッドなど見て真剣に取り組んでいるのだが、残念すぎるぐちゃぐちゃさで、頭を抱えざるを得ない。だから画像はない。しかし味だけはうまい。でも見た目は終わっている。作ってるおれが終わってるからかもしれない。こうなったらちゃんとしたお好み焼きを作れるようになるまでお好み焼きを作り続けて食べ続けてやる、THE OKONOMIYAKI デスマッチ@マイホームだ。挑戦者求ム。

話は変わるが、それにしても昨日はやけに物悲しかった。ランニングをしていると、こう、もやもやと悲しくなってきて、いろいろと儚くなってきて。

そういうこと、瞬間って、きっと誰でもあるんだろうけれど、ぼくのそれは最近、少しずつ質が変わってきているような気がする。

大学生のころのぼくは日々おおいに悩み苦しみ悲しみ自己憐憫にひたっていたのだが、しかし、その頃のそれはとても"軽かった"気がする。まあ、きっかけが失恋だったせいもあるかもしれないが、いやしかし、失恋は軽くはないのだ。時にはほんとうに死ぬんだからな、ええっ? わかってんのそのへん?

ってまあそれはどうでもいいんだけれど、少しずつ、悲しみが深くなっていっているような気がする。悲しみには二種類あって、何かがあれば救われる悲しみと、何をもってしても救われない悲しみってのがあると思うんだけど、少しずつ、何をもってしても救われない悲しみのほうへシフトしているような気がする。

それはたぶん、年齢のせいだろうと思う。確実に死に向かっている、確実に生きていられる時間が減っていっている、という、もう当たり前すぎて仕方なさすぎることなのだが、それでもやっぱり、日々、自分の肉体に「あなたはこれだけの時間を過ごしてきましたね、もう取り返しはつきませんからね」という、暑さ寒さで刻み付けられる樹木の年輪のようなものがひしひしと感じられて……ああ、そうだ、過去が増えていくということだ、過去が重くなっていくということだ。当たり前だが、もっと若いころはそれだけ過去が少なかったわけで、ずんずん増えてゆく過去に、茫然としてしまって、それらがあまりにも整然としているものだから、もっとおもしろおかしくにぎやかに忙しく過ごしてきたはずなのに、過去の一切があまりにもすました顔をして並んでいるものだから、なんだか、ぼくの過去なのに、ぼくの過去じゃないみたいな感じ、それで、よそよそしいじゃないかおまえたち、ほら、おれだよ? わかるだろ? って、でもそれらはクスリとも笑ってくれなくて、ただひたすらにのっぺりとしていて、ほんとうにそれらはあったのか、どうか。そんな感じで悲しいのかもしれない。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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