たぶん、それは信仰で宗教

最終更新: 2017/08/22

なんか昨日みたいな淡々とした文体がちょっと気に入っているので、今日もそうする。

ひさしぶりの学校はとても長い。かったるい。帰りたい

家に帰って米とぎ風呂入りすぐに寝る。3時半に起きて絵の制作を1ゲーム、朝ご飯食べ弁当を用意して2ゲーム、3ゲーム。

その中でぼくは考える。なんでこんなことを毎日飽きもせずにやっているのだろうかと。

今日の画像のように、米粒をひたすらに描いたりしている。

ときどきはつらい。ときどきはつまらない。ときどきはおもしろい。ときどきはさみしい。

あるいはこれは、ぼく以外の人にとっては拷問かもしれないと思う。

23時に寝て3時半に起きて、米粒を描け。毎日描け。

ぼくはぼくにそう命令する。ぼくは従う。

人は往々にしてよっぽど絵が好きなんだろうと言うが、そんな次元はとうに超えている。いや、そもそも寝食を忘れるほどには絵を好きではない。いつでもしっかり寝食を覚えていて、忘れない。人はぼくの生活を聞いてストイックだと言いがんばり過ぎだとも言う。

それはそうだろうと上から目線で思うのだが、実際、それほどのつらさを本人が感じていない。それを上回る、満足感でもない、達成感でもない、そう、近い言葉としては、信じている、という気持ち。

自分の作品というか、行為そのものを信じている。結果ではない。ときには駄作もあり、ときには傑作もあり、そのどちらの時でも信じているその気持ちは揺るぎない。とにかくは自分が絵を描くという行為を、完全に、絶対的に信じている。

たぶん、それは信仰と呼べるものだ。

というのも、実家で同居している祖母はとある宗教の熱心な信者なのだが、それがよい例である。

雨の日も風の日も雪の日も、体調の良い日も悪い日も、朝晩二回の"おつとめ"を絶対に欠かさない。

朝晩きっかり、NHKの朝晩のニュースのように、ピッ、ピッ、ピッ、ピーン、南無妙法蓮華経どろどろどろと響かせる。

あれはきっと、口の中に真綿を突っ込んでもなんのその、心の中でいっそう大きく唱えるだろう。こと切れるその瞬間まで、唱え続けるだろう。そうして信じ切っていて、死をも恐れない。

もちろん、よっぽど宗教が好きなんだろう、とは誰も言わない。

それが信仰というものだからだ。

信じるという行為の中に、自分の存在の一切があるのだ。

だからぼくは、来る日も来る日も倦まず弛まず、南無妙法蓮華経よろしくカキカキカキカキ。

それが信仰というものだ。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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