孤独をもてあます頃に
2017/08/22
大学のころは孤独が好きだった。
ひとりで居ると、心が安らいだ。ひとりで居る部屋のなかでは、自分がその部屋の支配者であり、すべてであった。それはぼくに、決して小さくはない全能感と満足感を与えてくれた。
なんて書くと、ああ、そういう人(思慮深い、物憂げ、さびしげ、悩める等々)なんだということで了解されようが、たぶん、それは違う。
孤独が好きだと”言う”自分が好きだっただけであって、そのように吹聴する自分に酔っていたのであって(いまでも十分に酔っているが)、決して孤独そのものが好きだったわけではないように思う。
というのは、最近の日々の感想でもある。
人間には、生まれながらの気質というものがあると思う。もちろん、孟母三遷の教えにもあるように、環境の影響は絶大だ。しかし、それでも、人間には生まれながらに持つ何かしらがあると思う。いや、思わざるを得ない。
乏しい人生経験と、豊かな読書量を混ぜ合わせて、そのように結論づけたい。
自分は生来、ネアカなのだと思う。ふつうに、人と話すのが好きだし、みんなで集まるのも好きだし、笑うのも好きなのだ。そして、これまたふつうに、さびしく思いたくないし、悲しみたくもないし、泣きたくもない。
そういうのは、もう、ちょっと、疲れたし、飽きてきた。
一人の生活は気楽でいい、自由だ、すべてが自分のためだけにあるのだ、なんていう主張は、これまた、もう、ちょっと、疲れたし、飽きてきた。
たいした関連はないが、下記、生まれつきの気質つながりということで、毎度恒例の、新聞のコラムを引用させていただきたい。
【食通、北大路魯山人は貧しいながら皮肉…】
▼食通、北大路魯山人は貧しいながら皮肉にも生まれつきの味覚を備え子どものくせに食べ物にうるさかった。あまりの講釈ぶりに母は「時には黙って食べなさい」と諭したそうだ
▼魯山人にとり“着物は器”であった。いわく「食べ物をうまく食うのには、つまらない器に盛ったりしては美味さがでない。着物と同じで新橋あたりの芸者は着物がいいから、座敷に出ても立派に見える。食い物だってその通りだ」
▼古い器を求めて自ら全国を巡るも、ついには「自分で作ってしまえ」となったのが陶芸への動機だったという(「魯山人味道」魯山人著・平野雅章編、中公文庫)。日常食される家庭料理や伝統和食の味に求めた新境地。根底に食材をとことん使い切る並々ならぬ愛情と執着があった
▼ユネスコ無形文化遺産に「和食 日本人の伝統的な食文化」が登録された。和食の衰退と洋食化の中での指定である。加えて食材の偽装表示という逆風。無形遺産の名が泣きそうだ
▼魯山人の金言に「飽きるまで食べ続けてみて初めてその物の味がはっきり分かる」とある。和食の基本、ご飯と味噌(みそ)汁は毎日食べても飽きがこないのは、体が欲する滋養があるということだろう
▼地産地消、栄養バランス良い理想的な和食の未来を子どもたちに残せるか、遺産登録後が問われてくる。純粋の和食にやっぱり外国産はふさわない。
(福井新聞/2013年12月16日午前7時55分)http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/column/47485.html
実に興味深い話である。
と、いつもならここからウンチクを垂れるところではあるのだが、今日はそんなことはどうでもよくって、最近はなにかとさびしさを感じる。
もはやとうてい秋風などとは呼べぬ木枯らしが、頬と言わず指先と言わず、ただただ胸にしみる。
ああ、さびしい。ぼくはさびしい。
好きなようにやっている。なんだってぼくの思い通りだ。何をしたって、とがめるものは誰もいない。そう、自由なのだ。
優れた創造はいつでも孤独な夜に生まれるとか、なんとか、いつか、どこかで、読んだ気がする。
ほんとうかよ、うそくせえな、って思う。
たぶんそんなことを言うやつは、いつもはなんやかやと騒がしい暮らしの中で、たまたま家人が帰省か何かで家を空けている、そんな夜に、ちょっとうきうきとして、ぽろりと、ひとりごちただけだろうと思う。
延々と続く、無限の孤独な夜に生まれるのは、酒、酒、酒、そして酒だけである。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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