日常をもっと
2017/08/22
「し、しし、失礼いたしました。もも申し訳ありません。」
電車が大きく揺れた。それでバランスを崩したサラリーマンは、背後に立っていた女子高生にぶつかった。
50代くらいで、頭部はやや薄い。典型的な中年太りで、いかにも安そうなネズミ色のロングコートに身を包み、ブリーフケースを大事そうに携えている。それは何か、外部のあらゆる脅威から身を守ろうする盾のようにも見えた。
どうひいき目に見ても、うだつがあがらない男であった。電車が揺れて、人にぶつかった。そのくらいで、そこまでバカ丁寧に謝る必要があるのだろうか。
女子高生はなんとも答えず、無言であった。胸中で「別に」などと応じたのかもしれないが、はたから見れば無視でしかなかった。
一方の男は、その後もしばらく、自分の失態を恥じているのか悔いているのか、ひどく狼狽している様子であった。
今朝、哲学用語の解説の本を読んでいた。アガペーとは、無償の愛のことであると書いてあった。別になんの関連もないが、ぼくはその一連の流れを見て、無償の愛か、と、ひとりごちた。
読みかけの本に、意識を戻した。次の読書会の課題図書である、ブコウスキーの「勝手にしやがれ」である。今朝から読み始めたので、まだほんの数ページしか読んでいないが、無頼、ハードボイルドという感じがする。
ぼくはブコウスキーという作家を知らなかった。だから、というわけでもないが、訳者あとがきから読み始めた。
ブコウスキーは前近代的なマッチョな文体のようだが、それは違うとあった。女性に翻弄される、ナイーブな男性像がそこにはあるという。前日に読んだ本に出てきた、三島由紀夫についての記述を思い出した。ボディビルダーをし、身体を鍛え抜いていた三島だが、割腹後に解剖した検死官によると、見た目の屈強さに反して、骨格は小学生のような脆弱さであったという。
見た目と中身とはしばしば矛盾しているというのは、ほんのちょっとでも世間の風に当たれば、誰でも気づくところであろう。
もう一度、電車が揺れた。男は二度とは失態を演じまいとする決意表明のように、つり革を強くにぎって、微動だにしなかった。一方の女子高生は、時間が止まっているかのように、スマホを触り続けている。ぼくはそれを、本を読みつつ、視界の端で盗み見ている。
ふつうに考えれば、女子高生は、これから学校にゆくのであろう。男は、サラリーマンであろうから、これから会社にゆくのであろう。ぼくもサラリーマンなので、会社にゆくのである。
それぞれが、どこかにゆく。時刻は朝である。一般的には、一日の始まりに違いなかった。
しかし、その瞬間、どうして、一日が終了するような気がした。閉じてゆくような気がした。
女子高生は、たとえば一時間後、友達と笑っているだろうか。サラリーマンは会社で、あいかわらずのうだつのあがらない顔で、パソコンに向かっているだろうか。知らないが、たぶん、そんなところだろう。
ぼくはといえば、十中八九、真顔でパソコンに向かっていることだろう。
ぼくと彼らとは他人である。自分のことはわかるが、他人のことはわからない。なにひとつ、わからない。
渋谷駅に到着する。人々が吐き出される。各々がどこかしらへ向かう。人々のなかに、ぼくも交じっている。ぼくはぼくであると同時に、人々でもある。
ぼくは会社へゆく。自分の席につく。パソコンを立ち上げる。仕事を始めるのである。
自分のことはわかる。自分のことだけはわかる。よくわかる。そうして一日が終わるのである。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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