本能について

最終更新: 2017/08/22

今朝、「母乳」(岩波新書/山本高治郎)という本を読んでいると、母性愛は本能ではないという説が紹介されていた。

フランスの作家のエリザベート・バダンテールが、「おまけの愛」という本の中で豊富な例を上げて書いている。たとえば富裕層の人は子を生むと里子に出すのが普通であり、会いに行くのは年に数回であった。また、その我が子の死亡通知を受け葬儀に参列したとしても、涙を流しているのはたいてい里親であったという。母性愛が女性の本能とされるのは男性の都合であって、母性愛を女性の本能だと決めつけることによって、女性を育児に縛り付けたのだ、とか、なんとかかんとか。

まあ、確かになと思う。子をはらんだ瞬間から、急に母性愛に目覚めるわけもないだろう、という気はする。仮に目覚めたとしても、そんなものは完全に後天的性質に違いなく、生まれながらに遺伝子に組み込まれていない時点で本能とは言えない。子供を産んで優しくなったとか柔らかくなったとか言うのは、男性の嗜好は言わずもがな、周囲の期待する母親像の幻想に過ぎないのだろう。

しかし、ここまで書いても反論する母親は多いような気がする。母性愛は本能だ、男のおまえには一生わからない深遠なる尊い感覚をわたしは日々感じながら生きているのだと。

しかしそれは単なる思い込みでしかない。子を慈しみ愛する母親という、自他が作り出した理想像にずっぽりはまって、にんまり自己満足しているだけだろう。

だって、本能は悩まないし苦しまない。どうにも泣き止まない子供を放り投げたくなったというのはよく聞く話。育児が嫌になって、自分には愛が足りないのではないかと思い悩むのもよく聞く話。

それこそ本能ではない証である。病気でもない限り、なぜ自分は食べないのかと疑問に思うことはないし、なぜ自分は異性を求めないのかと悩まないし、なぜ眠らないのかと考えることもない。

それは既にあるのである。食べ過ぎヤリ過ぎ寝過ぎで悩むことはあっても、それの欠如に悩むことはない。だって既にあるから。

そう考えると、父性というのもまた怪しい話だと思う。お父さんらしくなったなんて、単なる自覚か、ちょっと盛り上がった良心に過ぎない気がする。

そうしてなんだか一周りするが、母性愛を本能と決めつけたのは、相当に賢い戦略だと思う。なぜわたしが育児を? とかいう疑問の一切を封じ込める。本能なんだから考えるんじゃない。黙って子育てしとけ。さらには本能である母性愛が無いなんておかしいんじゃないの?と、女性を罰する空気までをも作り出す。

まあでも、母性愛は本能、ってことにして、なんの疑問も覚えずそのまま生きていけたなら、それはそれは幸せではあるだろう。なにごとも掘り下げて考え始めるとろくなことがない。そのまま、馬鹿のままで、それがあなたの身のためです、ということで。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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