へその緒切れて、はや三十三年の

最終更新: 2016/04/13

まず、SNSやメールにて、思いがけずたくさんの人から誕生日のメッセージをいただいたが、誰ひとりとして返信していないことをお許しいただきたい。

この種のメッセージになんと反応していいのかわからないし、SNSでしばしば目にする以下のようなやり取りを目にするにつけ、あまりのくだらなさにめまいがする思いである。

>○○ちゃん
ありがとう!
今年はがんばるよ

>○○ちゃん
こちらこそ出産おめでとう!
今年は育児大変だと思うけどがんばってね!

>○○ちゃん
……以下永久に続く。

というわけで、誠に勝手ながら、本ブログにて33歳になった私の心中を吐露することで、それらの返信と代えさせていただきたいと思う。

閑話休題。

昨日3月29日はぼくの誕生日だった。33歳になった。

10時ごろに起きて、いつも通り絵を描いて、夕方18時過ぎからご飯を食べて、20時前に就寝した。

一歩も外に出なかった。何ひとつ、うれしくもおもしろくもない一日だった。むしろ、つまらない一日だった。

眠る前に、二十年前の誕生日、つまり、13歳の時の誕生日のことを思い返してみた。たぶん、実家で家族に囲まれてハッピーバースデイを歌ってろうそくを吹き消したのだろうと思う。

次に、十年前の、23歳の誕生日のことを思い返してみた。東京に出てきたばかりで、樋口や田川あたりと、誕生日パーティでもしたんだろうと思う。ぜんぜん覚えてはいないが、たぶん。

それから十年後の33歳の誕生日、特になんにもしなかった。

別に何かしたいわけでもなかったのだが、ぼんやりと、なんだかなあと、遠い目になる。取り立てて不幸せというわけでもないことは重々わかっている。しかし。

誕生日の翌日。今朝は3時半に起床した。絵を描いていると、ふと思った。歳をとるということは、煮詰められていくことなのではないだろうかと。

人は歳をとると、頑固で偏屈になるとはよくいわれるところである。しかし、考えてみれば、人はみな、生まれながらに多かれ少なかれ頑固で偏屈なものだし、個性的でもあるものだろう。

ただ、若い時にはそれほど目立たないだけなのだと思う。みずみずしい若さ――快活、無知、奔放など――によって、それらがほどよく薄められているだけなのだと思う。

若さを失うにつれ、煮詰められるように個々の特徴が露わになってゆく。ちょうど、煮物やなにかで、煮詰め過ぎると塩辛くなるようなものだ。

たとえどんなに塩辛くても、それは決して後天的なものではない。もともと含まれていた塩なのだ。

なんてことを考えていると、自分でも苦笑してしまうほど、昨今の自分にぴたりと当てはまる。

以前は平然とやれていたことが、ひどく苦痛になり始めていたりする。たとえば賃労働。働かざる者食うべからずとはわかっていても、馬鹿馬鹿しくて仕方がなく、ときに、なんで自分がこんなくだらないことをやらなければならないのかと、怒りすら覚えたりもする。

一方では、絵を描くこと、現代美術を志すことについては、その意味や価値がどんどんと比重を増し、いまや自分のすべてになろうとしているかのようだ。

これでいいのかどうかはわからない。いや、是非云々を論じても意味はなく、歳をとるということは、避けがたくそのような性質を持っているものなのだと思う。

皮膚がたるみ、しわやしみが増えることの是非を論じても仕方がないだろう。

そもそもが頑固で偏屈なぼくは、これから先、塩辛いどころの話ではないだろうなと思う。

歳をとることの価値、経験や成熟云々を足したり引いたりしてみても、結局のところ、やはり歳を取ることは悲しいと思う。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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