ぼんやりとした不安

  2015/07/03

芥川が自殺したのはこの「ぼんやりとした不安」からであった。それを何かで読んだとき、ぼんやりってなんだよと少なからず思ったものである。明確ななにかではなく、ぼんやり死ぬのかよって。なんとなくクリスタルみたいな、いや、全然響きは違うが、そんなとらえどころのない曖昧な、ふざけた感じ。

しかし、いまになって思うのは、逆に「はっきりとした不安」よりもよほど人を死に追いやるような気がする。

そこそこ幸福であり、何不自由ない。特に切羽つまっているわけでも、具体的に苦しんでいるわけでもない。

日々はただただ穏やかに流れていくが、その穏やかさに、むしろ穏やかであるがゆえに、なんとはなしに苛立っている。その苛立ちはごく軽いようで、しかし果てしない。苛立ちなど無いと言ってしまえば確かにそんな気もするし、あると言えば消しがたくある。じくじくと痛み続ける歯痛のような、泣きわめくほど痛くはないが、終わりがない。なにかにつけて気が散る。一時も忘れられない。集中できない。日々は疼きとも痛みともつかない、ともかくは不快感とともにあり、生活が徐々に侵食されてゆく。そうしていつしか人生そのものが不快だとさえ思われてくる。

それでも、穏やかな日々には違いない。どうこうしようというわけではない。どうこうしたいというわけでもない。現状はおおむね良好である。問題ない。なにも、問題がない。

昨日、姉の家の窓から見えたアドバルーンから、そんなことを思った。アドバルーンは植木市の広告であって、これまたどうしようもなく牧歌的であった。植木市がなんなのかは知らないが、たぶん、なんかの種だとか苗だとか植物だとかを、売れても売れなくてもいいけどできれば売れたらいいねアハハという感じで売っているのであろう。そんな時間が止まりそうなイベントの広告を、アドバルーンに乗せて飛ばす。どこの誰がそのアドバルーンを見て、あ、植木市だわ行ってみましょうかと出かけていくというのだろう。ここにきて完全に時間は止まってしまったようなものである。

平和、安全、安心、安寧。心に波はなく、どこまでも静かで、しかし静かであるがゆえに、深い森の奥でひっそりと佇む湖のように、なんとはなしに、不穏である。

話は変わるが3月29日は誕生日であった。その夜、ぼくはいとこのやっているお店でひとり飲んだ。たまたま居合わせた、50何歳のコピーライターをやっているというおっさんと仲良くなった。おっさんは広島らしくなく小洒落ていて、かつ知的であり、ぼくは素直に好感を持った。意気投合し、終電を過ぎ去らせてまで飲んだ。

零時をすこしばかり回ってから、ぼくはダンディなおっさんに、今日はありがとうございました失礼します、またいつかとやけに礼儀正しく言って店を出た。その過剰な礼儀正しさは、終電間近にパンクスのような勢いで頭をぶんぶん振り回しておじぎを交わすサラリーマンと同じで、単純に酩酊の深さと比例しているだけであった。

そこから、さも徒歩10分程度のところに家があるかのような感じで、ふつうに3時間ほど歩いて家に帰った。朝起きて、なんておれは馬鹿みたいに健康優良児なんだろうかと思った。いや、健康優良中年男性の間違いである。

我ながら狂ってる。しかし楽しかったので満足である。その翌日、日曜日も飲んだ。これまたとても楽しかった。いろいろあって、前日よりもさらに満足であった。ここ数年の中で一番楽しかったような気さえする。

満足である。満ち足りている。満ち足りていると思う。しかし、満ち足りている? ほんとうに?

満足という陸地は安定した試しがなく、ひどく脆くて、取り囲む不安や疑問の海が、粟立つその波が、淡々と陸地を削りとっていく。

けっこう幸せだと思う。けっこう幸せになれそうな気がする。けっこういい人生が送れそうな気がする。もう過去のことはいいので、未来のことだけ考えて、けっこう、それはもう非常にけっこうなぼくのこれからが有り得そうな気がする。

けっこうである。しかし、それは最高ではないとも思う。もしかすると、いずれ最高になるのかもしれないが、いま思うのは、やはり"けっこう"でしかない。

最高を望むのはわがままだろうか。身の程知らずだろうか。欲が深すぎるだろうか。

しかし、けっこうと最高の差は、とてつもなく大きいような気がして、けっこうの価値が、最高の前でわけもなくかすむ。そしてぼんやりと不安になる。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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