信仰の作り方(2)

  2017/08/22

別に連載するつもりではないが、なんとなく信仰について語りたい気分なので続ける。

というのも、自分の精神に埋めがたい穴を感じるからだ。がんばっている、粛々と努力している、だけど、という気持ち。そもそも、生きるってなに? なんで生きてんの?

さて、日曜礼拝で非常に興味を覚えたぼくは、それから毎週、教会に通うようになった。

もちろん信仰心が芽生えたというわけではない。ただ、なんとなく、ほんとうになんとなく、教会に足を運び説法に耳を傾け賛美歌を口ずさんだ。その行為が、とても清らかなことのように思われた。

それは固定観念的な清らかさではある。つまりイメージだ。美人は性格が悪い、とかいう先入観と大差ない。そういうイメージの、ほとんど幻想のような清らかさに、ぼくは浸った。

しかし擬似的には(あるいは本当に)、心が洗われるような気持ちを味わった。そしてしばしば、映画に見るような告白室に行って、今までのあらゆる悪事を洗いざらい話し、懺悔し、牧師を通して神に許しを請いたいとも思った。そして清廉潔白な人になりたいと願った。とはいえ結局、その機会は逸してしまったが。

教会では定期的にいろいろなイベントが催されていた。たとえばバザーなど地域住民とのふれあい的なものから、聖書に関する勉強会などがあった。

ぼくは毎週水曜日に行われていた、勉強会に出席することにした。聖書について、もっと深く知りたいと思っていたから。

日曜礼拝で多少は顔を知られていたものの、勉強会に行くと、また違った歓迎のされ方をした。玄関口から、どうぞお茶でもと居間に通された感じだろうか。だいたいいつも5〜6人で、牧師を囲んで聖書を読んだ。

「では鈴木さん、ルカの第5章1節を呼んでもらえますか」

牧師が促すと、鈴木さんがその数行を読む。

「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た……」

勉強会に出席している人は全員、60歳は超えているような老人だった。ほとんどが女性で、男性は1人くらいのものだったろうか。

そこに20代半ばのぼくは明らかに浮いていたが、しかしぼくは見てくれだけは(黙っていれば)柔和な人と思われるので、老人たちは孫のように親切にしてくれた。お若いのに熱心な、というわけである。

「では次の節を、新宅さんお願いします」

「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。」

要所要所で、牧師が解説を加えながら、ひとりずつ順番に朗読していく。

その空間は、とても静かだった。それに、不安になるほど穏やかだった。ああ、これが神の言葉というものなのかなあと、漠然と思った。

「そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。」

老人の口から出る「イエス」という横文字は、ぼくにはとても奇異に感じられた。だって、今の今まで、ぼくの頭にある一般的な老人像は、「仏さん」とか「なんまんだ」と言うのがせいぜいなのである。

それが「エッファタ」、「ガリラヤ」、「マリア」だとかいった言葉を口にする。老人らしいくたびれたしゃがれ声で発されるそれらの言葉は、それこそ呪文のように深刻な響きを持っていた。

ぼくは呪文を聞きながら、死に至るまでの、距離を思った。ぼくから見る死と、彼女らから見る死。ぼくにはあと、たぶん50年くらいあって、彼らは10年か、20年か、とにかくはぼくよりも圧倒的に死は近い。

ぼくの思い込みかもしれないが、彼女らは神にすがっているのだろうと思われた。すべての宗教は、死に対する恐怖の解消を内在しているという。だから、死に近づけば近づくほど、彼女らの祈りはなお一層強くなるわけだ。

しかし、不老不死を願っているわけではないだろう。事実、彼らは隠しようもなく老いさらばえている。それに、日曜礼拝のときに「22日に武田さんがお亡くなりになりました。皆さん、祈りましょう」というようなお知らせがあったりしたから。

ではいったい、何を祈るのか。まさか億万長者になりたいだとか現世的な成功を願っているわけではないだろう。そう考えると、ほんとうにいったい何を祈っているのか。彼女らにとって神はなんなのか。救いとはなにか。アーメンと唱えるとき、彼女らの心はどう動き、その言葉はどこに向かうのか。

ただただ安寧な日々? その永続? しかしそれは遠くない未来、確実に終わるのだ。避けられない絶対的な、暴力的な死によって、安寧は木っ端微塵に破壊されるのだ。

にも関わらず、祈る、祈る、祈る。それが信仰? いったい誰のための、なんのための信仰か。

ぼくは、いまだにその糸口さえ見つけられないでいる。それはたぶん、いくら死について思いをはせようが、結局のところ死はぼくにとってリアルではないのだろう。

ドイツの哲学者フォイエルバッハは次のように言い切っている。

「人間が宗教の始めであり、人間が宗教の中心点であり、人間が宗教の終わりである。」

わたしはここにいる。そして、じきにいなくなる。あまりにも単純な真理。しかし、おいそれとは受け入れがたいその真理。その溝のそばに、人知れず宗教の芽が生える。そんな気がする。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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