食べないこともままならぬ時代

  2017/08/22

ここ数年、お腹があまり空かないことに悩んでいた。

いや、悩んでいたというより、ちょっとナルシスティックに、どうしておれはこんなにもお腹が空かないのだろうか(顔を両の手で覆いよろめきつつ)、どこか悪いのか、単なる加齢なのか、どうかと思っていた。

朝ごはんも昼ごはんも晩ごはんも、たいしてお腹は空いていない。ただ、幼少の頃からの生活習慣に従い、時間になればごはんを”食べなければならない”ので食べていたのであった。

しかし、2、3カ月ほど前に、一日一食を勧める【「空腹」が人を健康にする(南雲吉則/サンマーク出版)】という本を読んで、素直に首肯させられた。つまり、もっと腹はしっかり減るべきだし、現代人はあの食べ物が悪いこの食べ物が良いだとか言う前に、そもそもが食べ過ぎなんだよなあと気づかされたのである。

何事も思い立ったが吉日の私なので、早速実行に移してみた。朝と昼を抜き夜だけ食べるのである。そうして初めての一日一食の夜ごはんは、長い間忘れてしまっていた、本来の食べることの意味を思い出させてくれたのであった。すなわち、「お腹が空いたからごはんを食べる」という、当たり前すぎるけれど、私には生まれてこのかた全然当たり前ではなかったことである。

今日の今日まで、朝昼晩の三食を何不自由なく与えられるままに食べてきた。朝起きれば朝ごはん、昼ごろになれば昼ごはん、日が暮れれば晩ごはん。自分のお腹の具合ではなく、”ごはんの時間”が私がごはんを食べるタイミングなのであった。

そのように育ってきて、何ら不自由はなかったし、もっと、幸福であったし、何よりありがたい限りではある。そもそも、家族システムを遅滞なく運営するには、それぞれの体調や希望よりも、システム全体の運営が優先されるのは当然のことだといえるだろう。

要するに、あまりにも幸せな家庭に育ってしまったがために、不規則でイレギュラーな食生活というものを知らないのである。

そうして大人になり、たいして運動もしなくなり、代謝も落ち、胃腸もくたびれ、そもそも日々加齢の猛攻を受けながらも、しかし朝昼晩と同じように食べ続けている。そりゃあ、腹も減らないわという話なのである。

最近、ようやくで自分の腹に具合を聞くことができるようになってきた。ここ1カ月くらいは、平日は一食か二食、休日は二食か三食で過ごしている。別に不自由はないし、むしろ身体が軽い。わかりやすく食費が浮くし、何より腹が減っていたほうがごはんがおいしく楽しい。少なくとも「なんでお腹が減ってないんだろう」と首を傾げながら食べるよりはよっぽどいい。

ちなみに今日は一日一食の日である。昨日の夜10時ごろから今現在20時前に至るまで、何も食べていない。しかし、一日一食をやったことがない人が思うほどには辛くないと思う。慣れれば、週に一度くらいはそういう日を作りたくなる”魅力”がある。

食べ過ぎないように気をつけている人は多いだろう。本当はもっと食べたいけれど我慢している人はもっと多いだろう。しかし、一日一食ならばその一食は食べ放題である。ドカ食いでもなんでも好きにすればいい。先に紹介した本にもそのように書いてあった。それはなぜかというと、食いまくるぞと思ってみても、実際にはそれほど食べられるものではないからなのだ。三食分を食べてやろうと思ってみても、せいぜいが1.5食か2食分くらいが関の山である。

しかし、それさえもじきにばかばかしくなってくる。一日一食にすると、夜ご飯の前には胃袋ひいては身体が空っぽなことを実感するのである。そうして、食べる物を慎重に選ぶようになる。いま食べたものは、スポンジが水を吸うように、わかりやすく血となり肉となりそうで、とても吉野家やコンビニ弁当などといったジャンクフードを食べる気にはならないのだ。

そうなると、自然と選択肢は豆腐や納豆、野菜や魚介類といった、いかにも身体に良さそうな食材を丁寧に味わって食べることになる。なんだかすごく邪教にはまった人の熱烈布教プロパガンダじみてはいるが、とりあえず一回やってみればわかる。いやほんと、まじめな話。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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