悪の一掃
2017/08/22
掃除をした。
洗濯、食器洗い、掃除機がけ、床拭き、トイレ掃除に風呂掃除と、本気で掃除をした。
正午前から始めて、気づけば15時を回っていた。それだけ汚かったということである。
片付いた部屋に、清涼な風が吹き抜ける。小学生の道徳教育にでもありそうな、「清々しいなあ」という気持ちが込み上げてくる。おそらくこの感覚は、他人ではなく自らが動くことによってしか得られないものではないだろうか。寺の小坊主の修行というわけではないが、掃除という行為には、その人自身の心をも浄化する作用があるのだと思う。いやほんと、真面目な話。
そのような曇りのない心持ちの時には、些末なことが目について仕方がない。ほんのわずかな汚れでも認めようものなら神経質に拭きにかかる。ものが微妙にずれているのを目ざとく正そうとする。まるで、それらが仇敵か何かでもあるかのように、到底容認しがたいものに感じられるのである。
逆に、散らかっている時にはほとんどがどうでもよくなる。たとえば、テーブルの上にご飯粒が落ちていようが醤油が垂れていようが、まあいいかと平然と放っておけたりする。
これはきっと、一種の割れ窓理論だと考えられるのではないだろうか。以下、wikipediaより転載。
“割れ窓理論(われまどりろん、英: Broken Windows Theory)とは、軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」との考え方からこの名がある。”
「割れ窓理論」(2015年10月27日 (火) 08:01 UTC版)『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E3%82%8C%E7%AA%93%E7%90%86%E8%AB%96
そういえば、正義のヒーローはしばしば「小さな悪も許さない!」みたいなことを高らかに宣言するが、彼らもまた割れ窓理論の実践者だというべきだろう。古今東西、ヒーローは意外に勉強家のようである。
それはともかく、悪は芽の内に摘みとらねばならない。その通りである。しかし、小さな悪はそれこそ浜の真砂どころか星の数ほどもあるだろうから容易ではない。
ゴミのポイ捨てに始まり、コンビニへの家庭ゴミの持ち込み、公衆トイレを汚してしまった際の放置、歩きたばこ、痰吐き、ガム吐き、ゲロ吐き、脱糞、犬の糞の放置。あるいは、水の出しっぱなし、食べ残し、電車内でリュックサックを背負ったままで居る等々、これらの一切を悪の萌芽と見なすことは、それほど"異常"なことではないだろうと思う。
少なくとも”本物”の正義のヒーローだとしたら、これらを見過ごしてはならないだろう。正義のヒーローという賃労働をやっているのであれば少々は構わないかもしれないが、無報酬も厭わない信念と使命感に突き動かされて日々戦っている正義のヒーローであれば、どう考えたって許せるわけがない。
必定、新宿などを歩こうものなら、一歩ごとに正義の鉄槌を振り下ろすことになる。トウッ! タバコのポイ捨て許さん! デヤッ!地べたに座り込み許さん! ズバッ! 客引き許さん! 新宿東口から歌舞伎町に辿り着くまでに日が暮れる。正義のヒーローの未来は甚だ暗い。
だからかもしれない。正義のヒーローが悪と戦うクライマックスの伝統的定番は、往々にして山中の人っ子一人いない採石場等であったりする。
正義はあらゆる悪に対して随時行使されるという原則がある。悪の大小は問題ではない。それは発見次第行使される。なんといっても、正義を行使するには、なにを置いてもまずは悪と出会わないことには始まらないのである。
そうして、あるいは都会で戦ってしまったが最後、正義のヒーローは混乱、疲弊、果ては発狂の憂き目は避けられないだろう。つまり、一般人の痰吐きを断罪しながら、悪の枢軸の構成員(以下、悪と表記)に鉄拳を食らわせ、その返す刀で歩きたばこのおっさんのタバコを奪い取りつつ、悪に足払いを繰り出したところで地べたに座り込んでいる若者に喝を入れつつ、路上でラーメンを煮炊きしているホームレスに檄を飛ばしてからの、悪にとどめの必殺技……。
馬鹿馬鹿しいかもしれないが、これこそが正しい正義のあり方である。いくら正義のヒーローでも、まだ出会ってもいない、知りもしない悪を裁くことは不可能なのだ。つまるところ、悪を発見次第、随時戦うしかないのである。
そうして、正義のヒーローの戦いのクライマックスが、決まって人気のない場所であるのは、決して故のないことではない。むしろ、苦肉の策でさえあるのだ。
しかし、昨今のゴレンジャーに代表される戦隊ものや仮面ライダーの戦い方をご存じの方は、反駁されるに違いない。彼らは往々にして都会のど真ん中――小さな悪や大きな悪が至る所に散在しており収拾不能な場所――で戦いを繰り広げるのである。
それがいったい何を意味するか。そう、現代とは、小さな悪を見て見ぬふりし、“目立つ”巨悪だけを制裁する、いささかご都合主義的な、もっと言えば偽善的な正義が当然のようにまかり通っている時代だということなのである。
確かに、伝統的な人気のない場所での戦いは、不自然であり、あまりにも芝居じみていたかもしれない。しかし、それは確かにひとつの誠実さではあったのではないだろうか。つまり、他にも悪はごまんとあるだろうが、いま目の前にある悪は彼らしかいないので、いまは取り急ぎその悪を成敗しているだけなのだ、と。
悪のそばで怯えている一見罪のなさそうな一般人も、あるいは携帯電話でせっせと不倫中かもしれない。そういったすべての悪に目をつむり、いかにもそれらしい悪とだけ戦ってめでたしめでたしとする現代の正義のヒーローには、今一度、熟考を求めたいと思う。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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