人生はだんだんおもしろくなくなる

  2016/04/13

昨日、二年ぶりくらいに「男はつらいよ」を見た。YouTubeで。

二年前くらい、いやもっと、調理師専門学校に通っていた2012~2013年頃はマイブーム中のマイブームで、毎週のように見ていたものである。

それにしても、相変わらずよかった。寅さんをはじめ、出演者のすべて、画面の隅々に至るまで、心の底から愛おしさがこみ上げてくるのだ。何がいいって、とにかくいいのだ。理屈ではない。

たぶんこれは、ふつうの人が犬猫に感じる愛おしさに近いような気がする。かわいすぎてもうたまらん! というような。ぼくにはそれが無いので(しつこく主張しておくが、ぼくは犬猫が死ぬほど嫌いである)、あるいは、「男はつらいよ」でその感性を発揮しているのかもしれない。

本でも映画でも、基本、ぼくに二度目は無いのだが、どうして「男はつらいよ」に関してだけは、二度目でも全然楽しめてしまう。内容は実際のところ、水戸黄門的なワンパターンには違いない。毎回、寅さんが誰かに恋をしてフラれる過程で起こる周囲のどたばたが多少違う程度である。

にも関わらず、いったい何がいいのだろうか。あるいは、それはふるさとに近いのかもしれない。母も、父も、相変わらず。兄弟、親戚も相変わらず。近所の人々、周囲の風景、それもやっぱり相変わらず。

ボロい店は相変わらず傾いていて、口が悪い奴は相変わらず一言多く、甲斐甲斐しいおばちゃんもまたしかり。それこそ、寅さんのお決まりのセリフである「よう、相変わらずバカか」にこの映画の本質が象徴されているような気がする。

「男はつらいよ」という映画は、常に”相変わらず”の物語なのだ。そこに我々は、現実にはあり得ない絶対的な安定――あるいは変化し続ける現実に対するカウンターとしての――理想郷的な安寧を見出す。

そのような空気感が、フィクションかつ他人の家庭の悲喜こもごもという垣根を取り払い、自分の本当の家庭かのような親しみを覚えさせる。だからこそ我々は、物語中のふつうに考えれば到底笑えないようなダジャレや冗談にも簡単に相好を崩してしまう。ちょうど、親しい人のつまらない冗談に吹き出してしまうように。

本題に戻ろう。うっかり「男はつらいよ」自体に対する愛を書き連ねてしまった。今日言及したかったのは、シリーズ第9作目「男はつらいよ 柴又慕情」における以下の場面についてである。

就職したばかりだろう20代前半の女の子が3人で旅行をしている。夜、旅館で布団に転がって、とりとめもない話をしている。

そのうちの一人は、今秋、結婚するという。その子が言う。

「あの人には、いろんなところに旅行に連れて行ってもらったわ。伊豆に、金沢に、北海道もよかったわね。」

「ねえ、どの旅行が一番楽しかったの?」

「そうねえ、一番は三年前の北海道。二番目は、一昨年の伊豆。三番目は、去年の金沢ね。」

「だんだんつまらなくなっていくのねえ」

ぼくはこのくだりに、思わず「なるほどなあ」と声に出してしまった。なんというか、あまりにも共感してしまったのだ。

実際、ほとんどすべての恋愛なるものは、そのような経過を辿るんだろうなと思う。それはもう、どうしようもなく避けられないことである。一度失われた新鮮さは、二度とは蘇らないのだ。

すこしばかり横道にそれるが、セックスレスを解消する方法について「セクシーな下着や大人のおもちゃなど、目新しいことを試して刺激してみては」というお定まりの回答がある。しかし、そんなもので解消できたら苦労などしないし、解消したとしたら、どんな馬鹿だよと思ってしまう。

新鮮さとは、そのような”気分転換”とはまったく異なる次元に存在する。新鮮さとは、突き詰めれば「一回性」なのである。

たとえば、ぼくはもう二度と、童貞を捨てた日の高揚感と万能感を味わうことはないだろう。当たり前である。”初めて”とか、”初の”とか、人間はそのような未知に、どうしようもなく惹き付けられる生き物なのだ。

だからこそ、歳を取れば取るほど、つまらなくなっていく。だんだんと、あるいはどんどん、未知が目減りして既知ばかりが増えてゆくからだ。

なんて言うと、一部の人々は「そういう倦怠は好奇心と行動力でもって未知の世界へ飛び出していくにことによって云々」とかいう論を熱っぽく語り始めてしまいそうだが、しかし、問題はそういう表層ではない。

深層の、結局、地球のどこにいたって、毎日起きて眠るのだし、何かを食べるのだし、屁をこき糞をたれ、時々は性的なあれこれをしたりして、とにかくは死へと近づいてゆく。そういう人間の基本ルーチンに対する飽きと倦怠なのである。

先の論でいけば、日常に倦んだOLに、今すぐ未知の宝庫である外国に行けば即人生ハッピーになりますよという話だが、そんなわけはないだろう。

人生さえもまた一回性から逃れることはできず、日常そのもの、生きることそのものにも飽きていってしまうのだ。だからこそ、歳を取るということは、ほとんど毎年つまらなくなっていくことと同義なのだと思う。

ただ、そこはよく出来ていて、飽きの状態を変えようと考えることや、実際に新鮮さを求めて動くこと、そういうあらゆるエネルギーは、歳を取るにつれて低下の一途なので、いよいよ人生に飽きてきたころには、もう何もかもがどうでもよく、自分のケツを拭くのさえどうでもいいやという体たらくになっていて、あとは気力を振り絞って棺桶をまたぐだけ、って、暗澹としてしまうが、残念ながらそれが人生というものなのである。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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