見ず知らずの誰かしらの日常

  2017/08/22

「お父さんがいたらいいのにね。ねえ、お父さんがいたらいいのにねえ」

会計を済ませた商品をレジ袋に詰める母親の横で、1、2年生くらいだろう女の子がねだるように言う。

「ねえ? おとうさんがいたらいいのにねえ」

母親は心底不機嫌そうに「はあ」とか「ああ」とか、ほとんどため息のような、相槌とも言えないような反応をする。

「ねえ? 元気が出る方法教えてあげようか?」

母親は応えない。

「ねえ? ねえってば? 元気が出る方法教えてあげようか?」

「ちょっと、お願いだから静かにして。あんたが静かにしてくれてるのが一番元気が出るから」

母親は絞りだすようにそう言って、がさがさと商品を詰め続ける。その横には、兄だろう中学に入ったばかりくらいの男の子が、真顔でそれらのやり取りを傍観していた。

ぼくはそんな親子を横目に、多くない買い物をレジ袋に詰め終わり、一足先に店を後にした。

離婚した家庭だろうか、と思う。あの子は、無いものねだりをしていたのだろうか。それで母親は、苦虫を噛み潰したような対応しかできなかったのかもしれない。本当は、「しょうがないでしょ! 居ないものは居ないの! いい加減にして!」とでも叫びたいところを、ぐっと押し殺して、ようやく絞り出した優しさがあれだったのかもしれない。

それで、分別がついてきた兄は、家庭の状況、ひいては母の心情を察して、ただ黙って、腫れ物には触れないよう気をつけながら、日々を過ごしている。

もちろん、勝手な想像である。難なく誰にでも想像できるだろう、日本中にいくらでもころがっている、おもしろくもなんともない家族イメージである。でも、そう考えると、確かにそのように感じられてきて、かわいそうだな、なんて、これまた勝手に哀れんでしまう。

ついでに、40がらみの母親の肌つやや身なりまでを見て、 いつだかはこの人だって、懸命に着飾って、みずみずしくはしゃいで、恋でもしていたんだろうになと、なおいっそう哀れんでしまう。

まあ、別に母親にならなくても、人間、寝ていたってしおれていくのは必定ではあるが、少なくとも若い頃は、今のこの状況を想像できてはいなかったんじゃないだろうか。

若者の描く未来は、往々にしてディティールが欠落しているものだ。たとえば、一流企業で颯爽と働く自分というイメージは描けても、夏の通勤電車で汗びっしょりのおっさんの背中が素肌の腕に密着してきているのに身動きできず死ぬほど不快であるというような場面は、まず想像できないし、そもそもしない。

結婚とか出産もまたしかり。想像ほど美しくて素晴らしいものではない。きらきらふわふわエフェクトがかかっているのは、写真か映像の中、あるいは頭の中だけである。

それはともかく、先の親子関係は、こうも考えられる。離婚ではなく、父親は単身赴任か何かやむを得ない理由で離れて暮らしていて、滅多に会えない状況というだけかもしれない。女の子は単にさびしいだけで、母親はもうその口癖には飽き飽きして、いい加減にたしなめるばかりである。兄は反抗期に差し掛かっていて、ただむっすりとして、親子間の積極的なコミュニケーションには極力参加しなくなっている。

だとすれば、あのやり取りはごくふつうのありふれた日常だということになる。いや、前者だとしても、立派な日常には違いない。

ただ、ぼくは漠然と、日常というものは平穏なものだと思っている。抱えきれないほどの大きな悩みや、神経が擦り切れておかしくなりそうなトラブルのない日常。それこそが日常というものだと思う。

しかし、そのように定義すると、そうそう日常なんて状態はあり得ない気がする。自分のことで考えても、長らく日常とは無縁である。あるいは、日常とは人生のまたの名でしかないのかもしれない。だとすれば、何がどうなろうが、悲しかろうが辛かろうが、もっと、戦争に巻き込まれようが天変地異に襲われようが、ただただひたすらに日常でしかないのかもしれない。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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