祈っといたから

大阪あたりで地震があったらしい。それでブロック塀が倒れて9歳の女の子が亡くなったという。その不運を哀れに思う。

知り合いが病に冒されているらしい。治らないかもしれないという。まだ若いのに気の毒に思う。

反面、取るに足らない些末なことだとも思う。だって、この世に不幸は浜の真砂ほどもあって、それらはただその一粒一粒に過ぎない。

しかし、私は祈っている。半年くらい前からだろうか、洗礼を受けてカトリックになってからは、なお祈っている。

目が覚めてからと、眠る前と、それぞれ祈っている。

祈ってどうなるものでもない。祈る暇があったら何かやれとはよく言われる。だとしても、祈らないよりは祈った方がいいのではないだろうか。

どうせろくでもない世の中で、どうしようもないこと夥しいこの世界で、つまらない人間に最後に残されることといえば、結局のところ祈ることくらいのものではないだろうか。

だから、私は祈っている。少しでも彼らの苦しみが取り除かれるようにと祈っている。でも、わかっている。祈りは届かないし、叶わない。でも、それでも祈っている。

思う。神はすべての祈りをしかと聞いているのだけれども、それをどうするかはまた別の問題なのだと。

そう気がついてから、私は、祈ることに希望を持てるようになった。

この現代にあってばかばかしいことこのうえないと思われるだろうが、しかし、私は今日も祈っておいたから。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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