おごりおごられ永遠に

不意に目の前にビールが置かれる。顔馴染みのルードからだと、店員がにっこり笑う。

私のお気に入りのビールであるラ・シューフを、瓶から銘柄オリジナルのワイン型のビールグラスにそそぐ。

「ヘイ、ルード!」離れた席に座っている彼に声をかける。「プロースト(乾杯)!」笑顔で互いにグラスを高くかかげる。

オランダの片田舎にあるこのバーに来ると、ほとんど毎回発生するお決まりのやりとりである。

しかし、このノリをそのまま日本の居酒屋に持ち込むと往々にして困惑される。断られることも少なくない。

確かに、日本にはオランダほど「おごり合う文化」がない。男女のデートのおごり問題ではいまだに呆れるほど無益な激論が勃発するというのに、である。

ちなみにオランダにおいては、男性がおごるべき云々というくだらない文化はない。それこそどんな場面でも「go Dutch(割り勘)」でなんら問題ない。そもそも、おごるという行為の有無で人間性を測るなんて下品ではないか。

ともあれ、「おごる」という行為は贈り物、贈与と同義である。つまり、「おごられる」側にしてみれば、贈与を受け取ったことになる。たかがビールとはいえ、その本質は同じである。

マルセル・モースの『贈与論』に出てくる「hau(ハウ)」という概念がそれを雄弁に物語っている。

hauとは、ニュージーランドの先住民マオリ族の言葉で、「贈り物に宿る霊的な力」や「返礼を促す力」を意味する。

モースの解釈によると、「hau」は以下のように作用する。

(1) AさんがBさんに贈り物(魚・布・宝物など)をあげる。
(2) その贈り物には、Aさんのhau(気・魂・生命力)がくっついている。
(3) そのhauは何らかの形でAさんの元へ戻ろうとする。
(4) ゆえにBさんは、いずれAさんに「返礼」をしなければならない。

つまり、「贈り物=ただのモノ」ではなく、その人の分身、あるいはその人の力が宿ったものとして扱われるのである。

これを未開の地における珍奇な文化だと思われる向きもあろうが、現代にも通用する普遍性があるように思われる。

たとえば、過大な贈り物を受け取った時のことを想像してほしい。単純に「心理的な負担」とも言えるが、もっと生々しい、まとわりついてくるような「重み」、それこそhau(気・魂・生命力)的なものを感じるのではないだろうか。

だからこそ、早急に重荷から解放されるべく、是が非でもお返しをしようとする。つまり、「hauが贈り主の元に戻りたがっている」のである。

さて、数年ほどオランダのおごり文化にどっぷりつかって気がついたのは、その場ですぐにおごり返すのは、どうやらあまりスマートな行為ではないということだ。

しかし、よく考えればそれは当然かもしれない。たとえば人に手土産を渡されて、すぐに近くのコンビニに駆け込んでそれ相応のものをお返しされても喜べない。

それはなぜか。「贈与」ではなく「交換」になるからだ。交換とは取引であって、そこにhauのような情感的なものは介在しない。あるとすればビジネス的な損得と打算である。

だからだろう。実際、おごられてすぐにおごり返そうとすると、しばしば「Take it easy!(落ち着けよ)」などと言われたりする。

それにしてもと、酔いのくちの頭で考える。これはいったいどこまで続くのだろう。おごり、おごられ、おごり、おごられ、何百何千何万回と、際限なく続く。原理的に、終わりはない。

終わりがあるとすれば、どちらかの「死」である。そして必ず、どちらかが「おごられたまま」になり、「おごったまま」になる。いずれにせよ、その時、行き場を失ったhauがさまようことになることだけは確かである。

むろん、そこらの酔いどれがそんな大仰なことを考えているわけはない。しかし、本能的に、その事実を認識しているような気がする。だからかもしれない。彼らには計算らしい計算が感じられない。あいつに、あの時、何杯おごったから、何杯おごり返されるべき、というような。

テキトーなのだ。その点、私は下卑た細かい人間なので、いつも正確にカウントしている。ある時など、おごり返す暇もなく3回連続でおごられた。積もり積もったhauの重みか、私はさすがに心苦しくなってしまったが、相手はいっこう気にする様子もない。

しかし贈与の本質とは、そういう「でたらめ」なものなのかもしれない。

そもそも我々自身が、でたらめに出会ってまぐわった父母の贈り物なのであり、父母もまたその父母のと、無限につらなるでたらめの贈与の結果でしかない。

そう、贈れば、いずれどこかの誰かに辿りつく。それがたとえ死ぬまで会うことのない見ず知らずの誰かでも、必ずその贈与は人々の間をぐるぐると還流する。

永遠に、この地球どころか、宇宙のどこかしらまで流れ流れて、少なくとも無になることはない。

そう考えると、始原の「おごった人」とは誰なのだろうか。そして誰が人類初の「おごられた人」だったのだろうか。

宗教くさいことを言えば、おごったのは神で、おごられたのはアダムでありイヴであろう。命以上の贈与物はない。科学的に言えば、人類発祥の地とされるアフリカで生まれた、名もなき誰かだ。

ただし人間は、最初から人間だったわけではない。ホモ・サピエンスじゃなくホモ・エレクトスで、猿人で、霊長類で、哺乳類で、よくわからない四足動物で、魚で、貝で、ミミズで、そこから先はもう、ミジンコだの、単細胞生物だの、ミトコンドリアだの、水だの空気だの、果てはビッグバンとかなんとかいう話になる。

なんだって構わないが、とにかくは今夜のビールの出どころが、元を辿れば深淵かつ摩訶不思議ないずこかからのものであることだけは否定しようがない。

だから、プロースト。あるいは乾杯。とにかくはおごりおごられるのは嬉しいし、楽しい。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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2025/11/27 更新 傷を育てる

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