例によって35回目の

最終更新: 2017/08/22

べつに嬉しくも悲しくもなんともないんだけど、誕生日となると、どうしてなんだか落ち着かない。

それは浮き足立つとかいうことではなくて、あるいは先生や上司に呼び出しを食らうような感じに近い。

具体的に誰にどこへ呼び出されているというわけではないが、あえて言うならそれは神様であの世だろうと思う。

年々その呼び声は高まる。「まだ来んのか」「親が先じゃ」「まだ来んのか」「糞をひりよる待っとれ」——そんな、昔ばなしにあるような幕間劇をぼんやりと思う。

それはとどのつまり「死について」ということに収斂されるのだが、しかし、単純にいつ、どのように死ぬかという話ではない。

かつては物理的な死の側面ばかりを考えていたが、最近では、死とは延々と私に問いを投げ続ける一種の装置のようにも思える。

私は片時も止まることのないベルトコンベアーに乗せられていて、刻々と死のくぼみへと運ばれている。そこからは常に「おまえはいったい何をやっているのか」という声が発せられている。その強弱や間隔は生まれてこのかたなんら変わるところがないのだが、しかし、こちらが近づいているせいで、年年歳歳いよいよ力強く響くというわけだ。

歳をとればとるほど、それを無いことにしておくのは容易ではなくなる。もはや、何をしていてもどこに行っても響いてきて逃れることができない。だから、都度都度、一応の答えを出さなければならない。

と言っても、そのほとんどは取るにたらない実にばかばかしい答えばかりで、たとえば「勉強してる」とか「エンジョイしてる」とか、あるいは「この先が楽しみ」だとかいうようなものでしかない。

しかし、それでも答え続けられることこそが重要なのであって、いつか、ぐうの音も出なくなったその時は、おとなしく退散する他ない。それがたぶん人生というもので、良寛なども「死ぬる時節には死ぬがよく候」とのたまっている。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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