シンガポールを好きな時
夜、タクシーを求めて手を上げる。「乗せてる」とか「忙しい」とかいう表示ばかりが走り去る。と、二車線道路の内側のタクシーの運転手が手招きをする。
駆け寄って乗り込んで、行き先を伝える。走り出して一息、今日は忙しいかと尋ねてみる。中東系の運転手は、まったく暇だよと言って笑う。
例によって車内は寒いほど冷えている。常々シンガポールのエアコンの効かせ方には穏やかではないものを感じる。熱帯という自然を、科学だか経済だかででねじ伏せ征服してやろうという、そう、狂気と言ってもいい。
その外界との気温差のせいか、車内には棺桶を思わせる静謐な空気が醸成されていて、俗世間から切り離されたような心持ちにさせられる。
そこに運転手の趣味だろう民族的な音楽が線香の煙のように漂う。楽器らしい楽器の音はなく、浪曲にも通じる人声が朗々と響く。
なんの音楽かと問うと、音楽じゃない、読経だという。むろん読経というのは意訳で、彼はpray(祈り)だと言った。自分はイスラム教で、これはコーランなのだという。
へえ、いいね。ああそうだ、おれ、知ってるよ。コーランはアラビア語で読んでこそ価値があるんだよね。他言語に翻訳されたものは「解釈」に過ぎないんだって、何かで読んだ。
確かにアラビア語には独特の響きがあって、その意味するところがわからない者でも自然、厳かにさせるような雰囲気がある。しかし、その価値はさておき、仕事に個人的な信条、それも宗教を持ち込むのはいかがなものか。日本で言えばなんとか学会の説教を仕事中に聞き込んでいるのにも等しい。
とはいえ、このような場面は初めてではない。近所のコンビニでも、店員のおばちゃんが外まで漏れる音量で似たようなのを流していた。その時も同じように尋ねてみたが、果たして彼女はreligion(宗教)だとさらりと言った。
みんなみんな自由だから好きにしてよって、口ではよく言うし、民主主義なら当然ってことにもなってるけど、実際それって滅多にお目にかかれるもんじゃないから。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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