ほぼエッセイ、ときどき現代の美術とアート。

焼き殺された音楽の先生は

  2019/03/30

子供だったぼくにとって、その先生の死は、あるいは他校への転任と変わらなかった。

ぼくは小学生だった。五年生か、六年生で、冬の終わりのころだった。それから金曜日だった。いや、週休二日制が導入されるかどうかという時分だったので、土曜日だったのかもしれない。

とにかくは週末で、次の日は休みという日だった。音楽の授業があって、先生のピアノの伴奏に合わせて、なにかしらの歌をみんなで歌ったような気がする。

先生は女の人で、まだ若かった。結婚もしていなかった。あばたがちな肌で、特に器量がいいというわけではなかったが、笑顔がいかにも優しく、人懐っこそうな雰囲気で、かわいらしい先生だった。

授業が終わると、また来週ねというようなことを言って、笑顔でさよならしたことを、ぼんやりと覚えている。

その週末の休日は、サッカーの試合だった。ぼくは隣町の小学校で、サッカーのクラブチームに所属していた。保護者の運転するワゴン車に乗って、他校まで試合に出かけた。

子供が満載された車内はとてもにぎやかだった。みんなで窓ぎわを取り合って、”ブラバン”をいくつ見つけられるか、競ったりした。ブラバンとはブラックナンバープレートの略で、運送会社の軽トラなんかでたまにある、黒地に黄色の文字のナンバープレートのことだ。一日のうちにブラバンを三枚見られると幸せになれるという話になっていた。そんなもの一枚も見なくたって十二分に幸せだったと思うのだが、幸せというものはいつでも過ぎ去ったあとにこそ、いっそう幸福そうに輝き出すものらしい。

試合については記憶にない。嬉しかったのか、悔しかったのか、勝ったのか、負けたのか、はっきりしない。

帰途についていた。解散場所である、隣町の小学校まで、もう目と鼻の先の距離だった。

車内は試合の興奮冷めやらぬ子供たちでかまびすしく、行きよりもいっそう騒がしかった。しかしそのとき、ほとんどBGMとして誰も聞いていないようなラジオから伝えられた内容が、耳に刺さり、息が止まった。

――小学校教諭の真鍋元子さんが、十一日未明、自宅に強盗に入られました。真鍋さんは頭を殴られた上に火をつけられ、全身をやけどしており、意識不明の重体――

先生だった。つい昨日、笑顔で別れた、音楽の先生だった。

たちまち、文字通り血の気が引いた。子供なりにいろんな思いが頭を駆け巡った気がするが、とにかくは、大変なことが起きたんだという焦燥感と混乱が全身を支配し、頭のてっぺんから足の先までを、ちぎれんばかりにぴんと、鳥肌とともに緊張させていた。

いま、ふとネットで検索をかけてみると、次のような短い記事を見つけた。

広島市佐伯区五日市町大字下河内350
強盗が小学校教諭を造成地に連れ出し焼殺 23歳の作業員を逮捕--広島市 1993.02.12 毎日新聞
広島市佐伯区五日市七、市立五日市小教諭、真鍋元子さん(30)が十一日未明、自宅に強盗に入られ、車で同区内の造成地に連れ出されて頭を殴られたうえ、全身を焼かれた。真鍋さんは十二日午前三時ごろ死亡。
広島西署は同区千同一、土木作業員、沢山裕二容疑者(23)を強盗、殺人未遂容疑で逮捕、十二日午後、強盗殺人容疑に切り替え送検した。沢山容疑者は第一発見者を装って通報していた。
調べでは、沢山容疑者は十一日午前五時すぎ、真鍋さんの自宅に侵入したところを、真鍋さんに見つかり、騒がれたため、真鍋さんを殴り、一万円を奪った。
さらに真鍋さんを、自分の車のトランクに押し込み、北西に約五キロ離れた佐伯区五日市町保井田の運動公園造成地に連れ出し、ハンマーのようなもので数回、頭を殴打。
真鍋さんに週刊誌を破ってかけ、ライターで火をつけ、焼き殺した疑い。

日付が気になって、調べた。先生が強盗に押し入られた1993年2月11日は木曜日だった。しかし建国記念日で、祝日であった。つまり、音楽の授業は水曜日だったのである。

次の日が休みだったということだけは記憶の通りだが、祝日だったことなど完全に忘れていた。記憶は容易に混濁し、あまりにも恣意的にねじ曲がりすり替わってしまうものだと思う。

人間なんていい加減なものだ。しかし記録された数字だけは正確に事実を伝え、だからこそ、ときにあまりにも強烈である。1993年2月12日、30歳、十一日未明、十二日午前三時、23歳、十二日午後、十一日午前五時すぎ、一万円、五キロ。

拾い集めた数字の中から、突きつけられるように迫ってくる数字がある。30歳。あの時、先生は30歳だったのだ。そう思うと、自然と感慨深くならざるを得ない。いまのぼくと同じ歳だったのだ。

年齢の上だけではあるが、30歳の人間にある、環境や人間関係、将来や目標、人生観。そういうものだけは、よくわかる気がする。

先生は、死ぬにはあまりにも早く、無念だった。

1993年から、20年ほどの月日が流れた、2012年。先生は永遠に30歳である。ぼくは着実に歳を重ねて、いつの間にやら追いついている。そして間もなく、超えてゆく。

その後、全校集会があった。体育館に生徒を集め、校長先生は言った。

真鍋先生は最後の最後まで「またみんなに授業がしたい」と言っていたそうです。しかしそれが叶わず、残念でなりません。

その時のぼくは、校長先生の言葉通りに受け取って、納得した。でも、いま思えば、そんなわけはない。そんな美談はないと思う。生死の境をさまよっているのに、仕事のことなんか、生徒のことなんかに気が回るものか。言いたいことがあるとすれば家族に対してであろうし、いたかもしれない恋人に対してに決まっているであろう。いや、口をきけたならまだいいほうで、ただただ漏れるのは嗚咽ばかり、もっと、皮膚の焼け焦げたどうしようもないにおいだけが、最期の空間を悲しく満たしていただけかもしれない。

もっとも、その種の修飾はまったく許されてしかるべきだろうとは思う。それよりも不思議なのは、当時も、今も、あたりまえにあるだろう犯人に対しての怒りというものがどうにも皆無だということだ。しかもぼくは、涙ひとつこぼさなかったし、いまもこぼせないでいる。

思うに、子供にとっての先生とは、死ぬにしろ、他校へ転任するにしろ、目の前から消え去るという観点で言えば同じことだからだろう。そうして、すみやかに忘れていくのもまた子供である。

しかし、ぼくは今でもこうしてときどき思い出して、忘れない。

先生は殺されてしまった。理解できる。先生は死んでしまった。理解できる。この世にはもういない。理解できる。世界中をくまなく探しても、もう、どこにもいない。確かに、理解できる。完全に、理解、できる。

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