お金の動くところ
以前の記事、彼はプロか、素人か。の後日談。
先日、ほんの冗談で受けた映画のオーディションの結果は、どうして冗談で終わらなかった。とはいえ実のところ、他の人に決まっていたのだが、日程が合わず私が急遽代打となったのである。
しかし急にもほどがある。撮影は明後日のど平日で、拘束時間は朝7時から夜7時までの丸一日。つまり肩身の狭いヒラのリーマンの小生に休んで来いというのである。だが、しょせん人生時間の切り売りに過ぎない賃労働の一日と、未知の経験が得られる一日をはかりにかければ、どちらに価値があるかは考えるまでもない。
撮影当日、指定された港にほど近い倉庫街には、早朝にも関わらずすでに多くのスタッフが集まっていた。いつかテレビで見たような、いかにもその業界という雰囲気である。そこでようやく詳細を耳にする。どうやら映画ではなく、映画館で流すCMであるらしい。
そして始まった撮影であるが、守秘義務があるので詳細は書けない。しかしこの撮影に、決して小さくないお金が動いているということだけは強調しておきたい。私にとって、それこそがもっとも考えさせられたことだったからだ。
たった1、2分のCMに、40人ほどのスタッフが丸一日拘束される。撮影に使用するプロの機材、大道具や衣装の量も半端ではない。場所の確保、撮影後には編集作業も待っている。そう考えると、素人考えで見積もってみても、少なくとも200〜300万はかかるだろう。
言い方は悪いが、たかがCMに、と私は思う。一方、これこそがビジネスというものなのだと、私は考える。それは、私の活動する美術界の内情と照らし合わせてみれば、しみじみと感ずるものがある。なぜならこの規模のスタッフ及び制作費は、よほどの大御所でもなければまず動かないからだ。
それが、ほんの一時期流されて忘れ去られるばかりのCMにおいては、こうも易々と動く。正直、どうしようもない美術の無力さを感じる。多くのアーティストが、金が一番の目的ではないと言い、往々にして雀の涙ほどの身銭を切って作品を作り、発表する。それでも金銭的な見返りは皆無と言っていい。
繰り返すが、たかがCMに、と私は思ってしまう。自分の作品の方が万倍は価値があると思う。しかし、私の作品に対して、そのような規模の金銭的価値が投じられた試しは、今の今まで一度もなく、あるいはついに死ぬまでないかもしれない。
もちろん、お金がすべてではない。しかし、一部ではある。しかも、悪いことには欠ければただちに全体が崩れてしまうような一部なのである。
私は、純粋にうらやましいと思う。あのように、きちんとお金が回っていることが、うらやましい。しかも、スタッフのひとりひとりが、実にいきいきとして、楽しげであった。巷のギャラリーがしばしば募集をかけるインターンという名の無賃労働ではない。きちんと対価が発生し、なおかつ自己実現ができているのだ。
現代美術は、基本的には誰も求めていないもの、そもそもニーズのないものを勝手に作っているのだから、滅多なことではお金が動かないのは当然なのかもしれない。しかし、決してそれだけではないと、私は思う。村上隆ではないが、我々はもっとお金の問題にフォーカスすべきではないだろうか。彼は芸術家だから、身を捨てる覚悟で借金してでも作品を作って、展示してというのは、もう、何かが根本的に間違っているように思われてならない。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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