ある英国人との出会いと別れ
2023/01/04
「彼の名前はバーナード・ショー。有名人なのよ」
かのイギリスの大作家本人と勘違いした私が大仰に驚くと、バーナードはジブリ映画にでも出てきそうな老人みたく、ふぉっふぉっふぉっと笑った。
「名前が同じだけよ。作家の方のバーナードはとっくの昔に死んでるわ」妻のネルケはいかにも愉快そうに言った。
それはオランダの片田舎にある安いバーで、やけに暖かい日の続く晩秋だった。
私がそこに通い始めたのは半年以上前のこと。彼らは常連でよく見かけたから、存在自体は知っていた。しかし、私はバーの片隅で2、3杯ほど飲んでさっと帰るのが常だったから、特に話をする機会もなかった。
ある日、バーのオーナーが私を呼んだ。「あなた、日本人でしょう? 彼らがあなたと話したいって」
オランダに限らず、欧米で黄色人種と言えば中国人と思われるのがせいぜいである。しかし、私はこの町に住む唯一の日本人らしいので、嫌でも目立つし、覚えられもする。
バーナードが私に興味を持ったのは、かつて日本に住んでいたからだった。元々はイギリス生まれで、結婚を機にオランダに移り住んで今にいたるという。確かに、いつもハンチング帽をかぶって、典型的な英国紳士感を漂わせている。
自己紹介をして、握手を交わす。「日本はすばらしかった」彼はそう、まっすぐ私の目を見て言った。
私が生まれたばかりの頃、1980年代、彼は東芝で働いていて、大分県に住んでいたという。
私は無遠慮に、あれこれ質問した。たとえば、「日本で一番つらかったことは?」
「フライドポテトが食べられなかったことかな」その頃はまだマクドナルドなんてなく、洋食も今ほどメジャーではなかったらしい。
「でも、ある時ついにフライドポテトを見つけたんだ。洋食屋で、ハンバーグ定食を頼むと、そのつけ合わせに出てきた。私はもっと食べたいと思って、ポテトをもっとくれないかと頼んだ。すると店主が言うには『もうひとつハンバーグ定食を頼んでいただく必要があります』って」
私は日本人の頭の固さに呆れるやら恥ずかしいやら、とにかくは腹を抱えて笑ってしまった。
宮島で日本人女性と出会って恋をした話なんかも聞いた。「キミエと言ってね、美しい女性だった。手紙をもらったりして」もしかすると、広島で生まれ育った私は、遠い昔、彼のすぐ近く、あるいは数キロ圏内で同じ空気を吸っていたことがあるのかもしれなかった。
バーナードの思い出話は続く。妻のネルケは時折、そうじゃないと訂正したり、こんなこともあったと合いの手を入れる。まるで彼らと一緒に旅でもしているかのように話が膨らんでゆく。
途中、何杯か酒をおごってもらって、私はすっかり酔っ払ってしまった。きりのいいところで私が礼を言って帰ろうとすると、彼は「ありがとう」と日本語で言った。
「今はもうほとんど日本語は忘れてしまったよ」。続けてネルケも日本語で、いまさら「こんばんは」と言ったので、とりあえず私も「こんばんは」と笑って返しておいた。
それから、会えばしばしば話をするようになった。バーナードとネルケは、いつも二人で一緒だった。この世に理想の夫婦の形があるとすれば、彼らこそがその理想だろうと思う。
二人とも白ワイン片手に、いつも楽しげに笑っている。70、80の老夫婦がこれほど頻繁にバーに出かけて一緒に過ごすなんて、ちょっと日本では考えられない。思春期の若者ならいざ知らず、老いてなお毎晩しゃべって話が尽きないなんて。日本のくたびれた老夫婦一般のイメージ――離れるエネルギーとタイミングを失っただけの腐れ縁――からすると、にわかには信じがたい。
彼らを見ていると、希望の光にも見える。老いることは決してマイナスではないし、もっと、「人生は素晴らしい」なんて陳腐な言葉さえ真実の熱を帯びてくる。
そんなある日のことだった。なんの気なくいつものように飲みに行くと、カウンターの奥にバーナードの写真が飾られていた。遺影だった。
知り合って半年にも満たない、しょせん場末の酒場で知り会ってちょっと呑んだに過ぎない老人の死には不釣り合いなほどに、動揺している自分がいた。
以前から肺を病んでいたらしい。確かに、しばしば痰のからんだ妙な咳をしていて、いつ死んでもおかしくないな、なんてぼんやり思ったこともある。でも自分の考えていたその「いつか」は、もっと遠い未来の、少なくとも年単位のいつかのある日のことで、つい先週のクリスマスイヴなんかじゃないことだけは確かだった。
葬儀は年が明けてからで、2023年1月2日の昨日だった。
妻のネルケが、オランダ語で弔辞を読み上げる。英語の理解さえ怪しいのに、オランダ語では、何を言っているのか、さっぱり理解できなかった。にも関わらず、不自然なほどに涙が流れた。
その場の雰囲気と言ってしまえばそれまでだろう。そもそも、私はバーナードのいったい何を理解して、何を共有していたというのだろうか。たまたま日本に住んでいたという老人の思い出と、たまたま私が日本人だったという属性が合致しただけの、薄っぺらい関係ではないか。
棺桶の上の方に設置された大型モニターに、ちょうど日本の結婚式で流されるような、彼の生まれて間もないころから、少年が青年になり、成人して結婚し、子供ができ、孫ができ、という写真が映し出される。ひとりの英国人のめくるめく人生が流れてゆく。老いさらばえていき、死の影がにじみ始め、そして今、まさに彼は死に溶け込んで、消え去った。
私はバーナードのなんでもないし、バーナードもまた私のなんでもない。もし誰かが冷静かつ客観的に、私と彼との間にあった交流を調べてみれば、とてもわざわざ葬儀に出かけて涙を流すような関係性とは思えないはずだ。
私はきっと彼のことを勘違いしている。そうでなければ自分のこの気持ちの説明がつかない。私たちに友情なんて大袈裟なものがあったわけもなく、ましてや愛なんて高尚なものは絶対になかった。そう、私は何か勘違いしている。それはとうの昔に死んだ大作家本人だという勘違いよりも、もっとひどい勘違いだ。
葬儀のあと、私の姿を見つけたネルケが駆け寄ってきて言った。「まさか日本人のあなたが来てくれるとは思わなかったわ!」
実際、40から50人はいたろう参列者の中で、白人以外の人間はただひとり私だけだった。バーナードと縁の深い参列者であればあるほど、日本で働いていたことのある彼と私を勝手に結びつけて、盛大に勘違いして帰ったろうと思う。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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