ご都合主義でもなんでもいいから、信仰を少し
2020/02/05
時々ふっと思う。ああ、信仰心が欲しいなあと。
言うまでもなく信仰心とは何かしらの宗教を信じることだが、改めて調べてみると「神仏を崇めたてる気持ち。その宗教の教えを受け容れ、自己の生活の中で実践しようとする気持ち。仏教では信心という場合が多い。」(はてなキーワードより引用)ということらしい。
なぜに信仰心が欲しいかといえば、何かしら漠然と救われたいとという願いがあるからである。
救われたいということは、現状が何かしらの危機にあるということ、もしくはそういう認識があるということだろう。いくら神でも、危機でもなんでもない人間を"救う"ことはできない。万事順調なとき、神の出番はない。
しかしこういう発想自体がもう、絶対的な信仰心の欠如を表している。要するにわたしの欲する信仰心など、困った時の神頼み的なものに過ぎないのだ。
本当の信仰というものは(いろいろな事例を見聞きする限りでは)、常日頃から粛々と神に祈る。つまり信仰する。もちろん困った時はいっそう強く祈るのだが、しかし、平生の信仰が堅固な土台となって、だからこそいっそうその祈りは強い意味、力を持つ。
たぶんこの時の信仰の威力は、無宗教の人の困った時の神頼みとはまったく異質な、圧倒的な力を持っていると思う、というかそのように感じられる。それは固い友情のようにも、深い愛情のようにも見える。とにかくは、一人の個の思考とは明らかに違う、厳然たる他者とのやり取りである。
遠藤周作の「沈黙」の中にこんな一節がある。
「主よ。あなたがいつも沈黙しておられるのを恨んでいました。」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
汝神を試すなかれとは言うものの、実際のところ、人間は神を日々試さずにはいられない。神は神で、人間を試そうとする(本当は人間が勝手に「試されているように思う」だけだろうけれど)。上記の一節は、まさにそういう問いかけであろう。
これは遠藤周作自身の宗教観のひとつの答えだったのだろう。それにしても、神は不在なのではなく、「存在するが沈黙している」という答えを導き出すのは、そうとうに難しいだろうと思う。
それはまったく現実の他者とのやり取りと同じで、真摯に語り、誠実を尽くし、問いかけ、答え、そういった細々とした、しかしかけがえのないやり取りの果てにようやく現れる「心の通い合い」のようなものだろう。それこそ一朝一夕にインスタントにできるものではない。
一方、浅薄な信仰の典型というのが、サマセット・モームの「人間の絆」の中に出てくる。
主人公のフィリップは生まれつきエビ足(足の奇形)でうまく歩けない。友達にも馬鹿にされる。非常なコンプレックスを感じている。あるとき、叔父に問う。神様はなんでもできるのかと。牧師をしている叔父は、もちろん、神に不可能はないという。
それから、フィリップ少年は熱心に神に祈る。どうかこのエビ足を治してくださいと、ひたすらに祈る。具体的な日付を定めて、休暇が終わるまでに、この足を治してくださいと祈り続ける。途中不安になって、叔父に、もしも願いが叶わなかった時に考えられる原因を尋ねると、「信仰心の不足だろう」と言う。フィリップはそれを聞いて、いっそう熱心に祈る。
祈り続けるうち、"絶対に治る"と信じ込むようになる。そうして休暇明けの日を心待ちにする。そして運命の朝、おそるおそる足を触る。「治ってないじゃないか!」
この時のフィリップ少年の落胆ぶりは、非常にわかりやすい。日本人にとっての宗教観の典型にも見える。しっかり祈るからちゃんと叶えてくださいよという「神との取り引き」である。
むろん、そういう下衆な取り引きをしようとする時点で、それは神とは似て非なるものだろう。
大前提として神は絶対なのだ。ということは、友達よりも、恋人よりも、家族よりも尊い存在であることは言うまでもない。
ほとんどの人は、友達にしろ恋人にしろ、大事な人とは取り引きなどしない。可能な限り"無償"であり"無私"であろうと努める。
なぜか? それがもっとも効果的な、相手を喜ばせる"愛"の表現だとわかっているからだ。
にも関わらず取り引きの対象とされる神とは、ほとんど人間以下の扱いではないだろうか。
フランスの社会主義者、ピエール・ジョゼフ・プルードンはこう言っている。
「神を仮定することは、これを否定することである。」
かくも信仰は遠い。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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