コロナお断り
2020/11/22
コロナのことは好きでも嫌いでもない。
このパンデミックは、日が昇ったり沈んだり、潮の満ち引き、あるいは風が吹き抜けるような「自然現象」でしかないと思うから、好き嫌いの問題ではないと、私は思う。
広島の中心部を少しはずれた場所にある居酒屋「夕焼け○やけ」を訪れたのは、晩秋の宵の口だった。
たまたま通りがかって、なんとなく、ふらりと入っただけで、深い理由はない。
いらっしゃい――大阪あたりのおばちゃんを思わせる、マダムという呼び方がしっくりくる女性が、いくらか戸惑ったような顔で言った。
8席ほどのカウンターと、団体用のテーブルがひとつきりの、こじんまりした店内。カウンターにはいかにも手作りらしい煮付けやきんぴらといった惣菜の大皿が五つか六つ、ラップもかけられずむき出しで並んでいる。
私は店の最奥部のカウンターに腰掛けた。「お客さん、はじめてですか」マダムが尋ねる。私がそうだと答えると「広島の方ですか」
うなづくと、「いや、こんなこと聞いちゃあいけんとは思うんじゃけど、こんな状況でしょお」
ああ、はあ、と曖昧に答えると、マダムは続ける。「うちはもう、近所の常連さんだけでやっとるのよ。じゃけえ、よその人はお断りしとるんよ」
「なるほど、そうなんですね」とあいづちを打つが、なんだかやっかいな展開になってきたと思う。
お飲み物はと聞かれ、ハイボールを注文する。「広島の、どちらです?」いかにも掘り下げるように聞いてくる。「ええ、五日市なんです」
「五日市いうたら、夏にJAでコロナが出たでしょう」斜向いに座る常連の中年男性が口をはさむ。「そうなんですか?」と口走って、ぎくりとする。
そんな重大ニュースを知らないというのは、いかにもよそ者である。しかし知るわけがない。なんと言ってもその時分、私はロサンゼルスにいたのである。14日間の隔離期間こそ過ぎているが、むしろ先月帰ってきたばかりなのだ。
ハイボールが出てきて、口をつける。「今日はなんでいらっしゃったんです?」やんわりとではあるが、尋問の感がある。
「ええ、ちょっと歯医者に行きまして、その帰りにぶらぶらしてたんです」「会社はこの辺なんですか?」「いや、私はフリーランスで、家で仕事してるもんで」
「なんかすいませんね、根掘り葉掘り聞いてしまって」マダムはそう取り繕うと、「この店に来たら、もう逃げられんよ。全員知り合いじゃけえね。次来たらもう噂になっとるで。新しいイケメンが来たいうて」中年男性が笑う。
「うちは常連さんだけで持っとるようなもんで、七十、八十の近所の方が、毎晩いらっしゃってくれるんですよ。そんなだからねえ、もう、万が一コロナでも出したら、絶対、店閉めんといけんでしょう。それで、悪いとは思うんじゃけど、よその方はお断りさしてもろうとるんです」そういかにも正論のように語るマダムは、しかし、マスクをつけていない。
居心地わるくなってきて、私はがぶりとハイボールをあおる。完全に入る店を間違えた。最初に外国帰りだと言って断れられておけばよかったと思う。
「そうよ。ほんまよ。これでもしコロナが出たら、おおごとよ」中年男性が言う。「ほんま怖い世の中でしょお。じゃけえ、うちは顔見知りの常連さんだけでやって、とにかく安心して飲んでもらいたいんです」と、真剣に語る彼女の口にはどう見てもマスクはなくて、不安になる。
あるいは、常連にならなければ見えない、裸の王様的マスクをお着けなのかもしれないが、私には見えない。「うちの店は、ずうっと、真心と真心でお客さんとつき合わあせてもろうとるんです。ほいじゃけえ、ねえ」それは真心ではなく単なる排他精神ではないか。「その通りよ」中年男性が満足げにあいづちを打つ。
「ごめんなさいねえ」マダムはそう口にするが、悪びれる様子はない。私が「そう思われるのも、無理もないですよ」おざなりに返すと、「ほんま、この店は全員顔見知りじゃけえ。新顔が来たら、あれこれ聞かれるけえ覚悟しときんさい」中年男性がおどけたように言う。
私はおあいそで、はは、と笑ってみせる。「まあ、もしこれからコロナが出たら、あ、あの新顔の兄ちゃんじゃ、いうことで、すぐわかりますけえ」中年男性の言葉に、マダムも「ほうじゃねえ、ほほ」と笑う。
はは、はは、ははははは。私はほとんど白目になりながら笑顔を作り、がぶり、がぶり、ハイボールをあおる。
30分とかからず飲みきって、私は言った。「いやあ、なんか急に酔いが回ってきたみたいで、すいません、お会計をお願いします」
マダムはあらあらと言ったふうで、しかし心なしか安堵したようだった。
「兄ちゃん、また来んさいや」「またいらっしゃってください」――私は立ち上がり、また寄らせてもらいますとかなんとか言いながら引き戸に手をかけて、はたと気づく。ドアも窓も閉め切られ、換気さえ行われていなかったことに。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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