【連載:基督者への回り道】わだば新加坡でゴッドになる(1)〜深い興味と浅い導き
2017/12/14
日本におけるキリスト教徒の人口をご存じだろうか。わずか1%である。
あまりにも有名なザビエルをはじめ、数多の熱心な宣教師による布教、それに対する迫害の数々、踏み絵に火あぶり逆さ吊り、その決して浅くも軽くもない歴史を考えると、これはいかにも少ないと思えるのは私だけだろうか。
とはいえ、キリスト教というものに対して、私にそれほどの思い入れがあるわけではない。仮に爪の一枚も剥がれれば、いやもっと、少しばかり深爪にでもされれば、ただちにイエスにノーと言って小便でもかけるだろうと思う。そう、私に信仰などというものは毛頭なく、あるのは俗な好奇心ばかりである。
とはいえ、2000年以上もすたれず読み継がれる聖書なる書物、そして現代でもなお世界における主要な宗教のひとつであり続けるキリスト教への純粋な興味は本物だろうとは思う。
これはごく一般的な日本人の宗教感覚でもって、キリスト教への回心を試みる酔狂なシンガポール在住の日本人の記録である。
その教会は、今思えば毎日見ていた。行きつけのバーから、ビールを傾けながら毎夕、その尖塔に立つ十字架が見えていたのだ。
その時分、私はなにがしかの宗教を求めていた。なんの宗教にしろ信仰のきっかけによくあるような、親兄弟が惨殺されたとか、不知の病に冒されただとか、そういう深くて重い理由は全然ない。なんなら至って幸せだ。しかし、満たされないものがある。虚しいものがある。それはユングの言う、ミドルエイジ・クライシス(中年の危機)というやつなのかもしれない。中年になれば、みな若き日に夢見た理想と今ある現実のギャップに懊悩するものなのだろう。
なにより、自分に残された人生時間というものを考えるようになる年頃だ。死と宗教の親和性は尋常ではない。ホタルイカと日本酒の組み合わせなんて目じゃないほどだ。すべての宗教は死の恐怖を乗り越えるためにあるとも言われる。
それはともかく、私はある日ふと思い立って、その十字架の立つ場所に行ってみることにした。日曜礼拝くらいは知っていたから、それについて誰かに話を聞いてみようと思ったのだ。
平日の18時過ぎだった。何もやっていないだろうと思った。しかし、礼拝堂の中からは読経にも似た低い声が響いていた。私はドアに手をかけた。普通の日本人なら躊躇するかもしれないが、私はかつて――十年以上前のことだが――調布の方にある教会に一時期通っていたことがある。それで、教会はすべての者にいつでも開かれていることを知っていた。
ドアを開けると、遠く講壇に立つ黒人系の神父の姿があった。牧師(Pastor)ではない。あれはプロテスタントでの呼び方だ。そこはカトリックの教会だったから、神父(Priest)と呼ぶのである。まあ、そういう豆知識をひけらかす程度には、そもそもの関心があったということである。
【連載】わだば新加坡でゴッドになる- 深い興味と浅い導き
- えび煎餅が食べたい
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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