うらやましい、わけではないけれど。

最終更新: 2015/07/03

わたしはきっと、基本的には暇なので、FacebookとTwitterばかり見ている。そして、無駄なことばかりつぶやいている。
からみづらいのか、敬遠されているのか、おそらくは後者であろうが、とにかくは、ぼくの投稿に対する反応はいつも薄い。驚くほど薄い。
こんなランチ食べましたぁ〜とかいう、どうでもいい投稿にいいね!が30くらいは軽くついているのに、わたしの至極まじめな素晴らしい投稿には、いいね!が1でもあれば、ホッとする程度である。
この世は、とかく不公平で生きづらいものであるから、智に働けば角が立つ、情に棹させば……なんてことを引用するまでもなく、ぐっとこらえて、そこは、言うまい。いや、ぼくが悪いことはわかっている。ぼくは性格が悪い。でも、そんな自分が大好きで大好きで大好き過ぎて、みんながゴミに見える。事実、だいたいの人を、ぼくはゴミだと思っている。嗚呼、ゴミどもめ。
それはともかく、そのSNSを流し見ていると、実に様々な今日という日があり、人生があるのだなあと、チープな表現だが、世界旅行をしているような気分になる。いや、なった、つい、さっき。
ある人は今日、愛娘の入学式を迎え、ある人は演出家として名を為して母校でワークショップをし、ある人はただ飲み、食べ、笑い、その他、桜がどうだ酒がどうだ電車がどうだ天気がどうだ、とか、とか、とか。
人の人生。他人の人生。まったくぼくには関係のない時間が、そこここに流れている。それはもう、とめどなく。
悲しくもないしさびしくもないし悔しくもないし、そりゃあそうだという話なんだけど、ちょっと、いろいろ、思うところはある。
ぼくにもぼくの人生があって、時間があって、みんながゲラゲラとお花見をして酔っ払っているときに、ぼくは水彩のキャンソン紙の目を穴が空くほど凝視しながら売れもしない絵を描いているわけで、それはもう、なにがよくてだれがよくてとかいう話じゃない。そういう話じゃない。
そんなことは、わかっている。
馬鹿じゃないんだから、わかっている。
だけれども、それでも、どうにも人と人との距離、ぼくじゃなくてもいい、AさんとBさんとかでもいい、とにかくは、人と人、この世に、この地球に60億の人がいるとしたら、少なくとも30億の、人と人との距離、隔たりがある。そこを、ぼくは、思う。
悲しいとかさびしいとかいう言葉はもう使い過ぎて飽き飽きして、そこらの石ころほどに無力化してしまっているので、使わない。使っても意味がない。
で、言葉を探して、うれしい。ということにする。いかにも奇をてらっているようだが、しかし、意外にも、ぼくはうれしいのかもしれない。
ぼくとは全然関係のない時間が無数に流れていて、ぼくはぼくの人生を生きていて、おまえはおまえの人生を生きているという、その事実が、当たり前すぎるその現実が、どこか、なぜか、うれしい、ような気がする。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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