美しい文章が書きたい

  2017/08/22

時々、漠然と美しい文章が書きたいという思いに駆られる。

誰かのしびれる文章に触れたときだとか、現実の腐敗との相殺を図るためだとか、によって。

しかし、美しい文章というのは、ごく短い俳句短歌や詩歌の類ではない限り、ある程度の文章量があって、いわゆる前ふり、溜めがあって、初めて美しい文章というものが生きてくる。

「高く飛ぶためにはしゃがまなければならない」という言葉は、まったくその通りだろう。

たとえば、ぼくの人生を揺るがした文章として、ドストエフスキーの「地下室の手記」に、以下のような文章がある。

「ところで、ひとつ現実に返って、ぼくからひとつ無用な質問を提出することにしたい。安っぽい幸福と高められた苦悩と、どちらがいいか?というわけだ。さあ、どちらがいい?」

ぼくは、この文章に完全にやられてしまった。圧倒的な感動に打ち震えた。決して大げさではなく、まったく、手放しで痺れてしまったのである。

しかし、この文章”だけ”を初めて目にした人は、十中八九「ふうん」で終わりであろう。興味深いくらいの感想は抱けても、感動とまではとてもいかないだろう。

もちろん、きっとぼく自身も例外ではなく、この一節に至るまでの、長い前ふり、溜めに付き合わされて初めて、その最後の辺りに出てくるこの一節に打ちのめされたのだ。

それは恋愛と一緒で、たとえば、出会ったその日に別れがたく涙を流す人などありえないのである。

出会って、話して、メールをしたり、手紙を書いたり、電話をしたり、ごはんを食べたり、どこかに行ったり、それから喜怒哀楽のすべてを共有する。そういった日々の雑多で些末な行為の集積の果てに、分かちがたく結びつくものなのだろうと思う。

たとえば、出会った最初に日に、好きじゃないなどと言われたって屁でもないが、たとえば3年、5年、10年と、長く付き合ったあとに同じことを言われれば、すべてを失ったかのように茫然とし、滂沱の涙を流すのが人間と人間の関係性というものである。

つまり、ナラティブである。なんて、カタカナ語で言う必要はまったくないが、ナラティブという単語の響きが好きなので使いたいだけであって、とにかくは、そう、物語。ある一定量の物語があって初めて人は何かしらを感じることができる。

そうしておそらく、人生は人間にとってもっとも大きな物語なのだろう。

人にはそれぞれ、好みの物語の形というものがあると思う。ぼくならば、それは涙を流せることである。

全米が泣いたとかいう安っぽさでも、一応の満足感は得られるのでいいといえばいいのだが、できれば、なんだか、こう、堪え切れずに一筋、つと、頬を伝うぬくい感じの、あえて表現するなら、高級な涙を流したい。

願わくば、私の臨終のときには、まさにそのような涙を流したい。物語の終わり。エンディング。家族、恋人、友達、出会ったすべての人がスタッフロールとして流れる。あったこと、無かったこと、私の人生の一切合切が、走馬灯のように駆け巡る。そして、諸行無常を受け入れて、喜怒哀楽のすべてが溶け出したような、それこそ美しい涙を流す。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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