人間的に日は暮れて
最終更新: 2017/08/22
土日は逆にやる気がないことに気がついた、日曜日。誰にというわけでもないが、申し訳ないくらいに絵を描いていない。
だらだらと過ごして、日暮れごろランニングに出かけたのが本日の画像。
まさに日暮れである。多摩川の土手の砂利道には、前日、間断的に降った雨の水たまりが、そここにだらしなくのさばっていた。
ぼくはそれを飛び越えたり、飛び越えられないほど大きな時にはよけたりして、走った。ひとりで障害物競走をやっているような感じで、自然とペースは上がっていった。
ふと、ジョージオーウェルの短編「絞首刑」の一場面を思い出した。
主人公は刑務所の看守で、これから死刑にされようという囚人を絞首台に引き連れていく場面である。絞首台までのわずかな道すがら、囚人が水たまりをふっとよける。主人公はその何気ない行動に、あまりにも人間的なものを見出す.。眼で見て、脳が働き、水たまりを嫌がり、泥を避けること。数分後には首に縄をかけられ死んでしまうにも関わらず、そのようにきちんと動く。こんなにも完全に正確に動いている人間というシステムが、数分後にはまったく破壊されるのだ。いったいに誰にそんなことを行う権利があるのだろう、というようなくだりである。
ぼくは人間的に、いくつもの水溜りを飛び越え、よけながら、走った。時には水や泥がはねて、僕のナイキのランニングシューズを、グンゼのランニング用の靴下を汚した。
ぐんぐん走った。犬の散歩をしている人の脇をすり抜けるときには、なおいっそうペースを上げて走った。というより逃げた。ぼくは犬が死ぬほど嫌いなのである。
黄昏は夕闇に溶けようとしていた。
走り終わろうとしたとき、黒猫を見た。
なんとなく、不吉だと思った。黒猫を見て不吉だと思うこと、そもそも不吉だなんていう観念自体が、とても人間的だと思った。
「あの子は身体の作りが違うねんな」
「そやけど、身体ができとっても、そうそうできるもんやないやろ」
「まあ、そやけどな」
黒猫のあとには関西弁の夫婦が歩いていて、そんな会話をしていた。黒猫には関係のない、人間界の夕暮れ。

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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