ぼくらのご都合主義
2015/07/03
死んだじいさんが出た、夢の中。
なぜかじいさんは、ぼくのお気に入りの七分袖のボタンシャツを着ていた。
なんでおれの服を着てるんだと言うと、じいさんは「なんでもええじゃあないか」と笑った。
その場には妹も居て、じいさんは「佳奈(妹の名)は賢いがのう」と言っていた。ぼくについては特に何も言われなかった。他の家族は居なかった。
それから何か、人生の総括っぽい話をし始めた。
「我々の一生いうもんは……」
じいさんはそんな切り口で、人生にはいろいろあるがまあがんばれ、みたいなことをしゃべっていた気がするが、はっきりとは思い出せない。だけど、目が覚めた時、じいさんの姿形だけは、鼻先で香るように覚えていた。
煙草のにおい。浅黒い肌はつやがあって、元気そうだった。ぼくが中学生か高校生くらいのころの、在りし日のじいさんであった。
そもそもじいさんはちゃんとしゃべっていた。というのも、じいさんは喉頭がんを患って声帯を切除したので、最期の数年間は唖(おし)であったのだ。
なんのためかはよくわからないが、じいさんの喉には親指ほどの穴が空けられており、笑うとそこから情けない感じで空気が漏れ、ときにはだらりと痰が垂れていた。そういった見苦しいものを隠すために、喉というか首には幽霊が頭につけている三角の白い布みたいなやつを、逆さにして装着していた。だから笑うとその布が、ふわり、ふわりと舞った。
その様子は、とにかくはインパクトがあった、と思う。不気味でもあり醜悪でもあったに違いない、と思う。
それならば夢に出てくる時も、そのじいさんの存命中において"もっともインパクトがあった状態"で現れてもよさそうなものだが、不思議と、夢に出てくるときのじいさんは例外なく元気なときの姿なのである。
もしかすると、あの世に行けば誰しも人生の盛りのころの姿に戻って、幸せに暮らせるということなのかもしれない。じいさんは最後の最後は寝たきりになり、足は壊疽し、背部は褥瘡にまみれて、排便などは看護婦が肛門に指を差し入れ掻き出されるような日々で、これで死なない方がおかしいだろうという感じで死んでいったが、それでも死ねばすべてがチャラになるものなのかもしれない。
そういえば、父が妙なことを言っていた。ぼくが大学のころ、博多駅の近くの居酒屋で二人で飲んでいた時のことである。
「わしが死んだら、天国でええ場所を見つけとってやるけえ。日当たりも丁度ええような家を用意しとくけえ、心配せんでええ。またそこでみんなで暮らそうや」
神の国よろしくなんだかとても宗教くさい発言に、しかしそのときは妙な頼もしさを感じたのを覚えている。ぼくがその時に何かで落ち込んでいたのかどうか、覚えていないが、ほんとうにそうなるような気がしたのだった。
ただ、のちにその発言の真意を聞いたところ、「そんなこと言ったかいのう」でおしまいであった。あるいは、なにかに憑依されていたのかもしれない。じいさんとか、じいさんとか、じいさんとか。
いや、そのころはまだ生きていたから、幽体離脱でもしたか、どうか。
なにはともあれ、あの世とか死後の世界だとか、まったく勝手なものだと思う。あの世でまた楽しく暮らそうなんて言われて心が安らぐのは勝手だが、それはぼくがたまたま幸せに生まれ育ったからでしかなく、たとえば不幸な境遇に生まれ育った者にしてみればくそくらえであろう。
いやいや、そういった不幸な者たちはあの世でシャッフルされ、別の境遇に、はたまた前世の行いが悪かった、云々、そんな理屈か屁理屈かは世界中のありとあらゆる宗教にいくらでも転がっている。
結局なにがどうなってこうなって、これからどうなるのかはわからないが、とりあえずは死んだじいさんが見守ってくれているってことにしておけば、ぼくの夢の吉凶も現世の処遇も今日の気分も、万事丸く収まるっていうご都合主義でやっつけちゃって。
きょうのしごと:4時起き絵の制作2ゲーム
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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