歩くときだけ見えるもの

最終更新: 2017/08/22

終電を逃した土曜の夜。

23時37分。ヒロシマの市電、いわゆる路面電車の終電は早い。

仕方なくタクシーで帰ろうかと思ったが、しかし、タクシーで自宅までは4,000円ほどかかる、と聞いていた、妹から。

ぼくは大学は福岡、その後は東京へと流れて行ったので、広島で飲み歩いた経験が皆無、つまりタクシーで帰ったことなどないのであった。

それはともかく、そこそこ酔っ払っていたのもあって、ふと歩いて帰ってみようかという気になった。で、歩き出してみた。

歩き出して3分後、コンビニに寄っておにぎりを買った。

さっそく封を切り、頬張りながら歩いた。歩きながら、タクシーで4,000円だということは、4,000円分は飲み食いしながら帰っていいんだよなと考えた。

そう考えるとなんだかワクワクとしてきて(いま思えば何故?)、さあ家まで歩くぞという気に、完全になった。

おにぎりのエネルギーで、30分ほど歩いた。またコンビニに入った。

カップラーメンを買った。いま描いているカップヌードルシリーズのための研究と称して。店内でお湯を注いでから、店を出た。

近くにあった公園のベンチに、ひとり腰かけた。街灯らしきものはなく、真っ暗であった。

目を凝らして、卵や肉のテクスチャーを見ようと試みたが、ほとんど見えなかった。かろうじて、その大きさと輪郭の感じだけはわかった。

箸先で麺をつまんで、高く持ち上げた。すると、重力によって麺がどのように垂れ下がるのかが、よくわかった。

まじまじと見つめた。なるほど、このように縮れていて、あまりトグロはまかないものなのだなと、観察を続けた。

ただその麺は、冬の夜風に吹かれて、おそろしくすみやかに湯気を失い、そして冷え切った。

それをすすると、なんだか懐かしいような味がした。それはちょうど、子供のころ、学校から帰ってきて冷え切ったみそ汁を鍋から直接おたまですするような……いや違う。私は無理やり雰囲気を出そうと嘘をつきました。単なる冷めたカップヌードルの味でしかありませんでした。以上。

食べ終わると、すぐにまた歩き出した。

ベンチに、塩分を気にして多めに残したスープが入ったカップと、割り箸を放置したまま。

ごめんなさい。

路面電車のレールを伝って歩いた。途中からは、高校の時分の通学コースにぶつかったので、そのときの記憶と距離感のままに歩いた。

高校一年の時のクラスメイトの家の前を通り過ぎた。確かあいつの親は歯科技工士で、自分も歯科技工士になるとか言っていたなと思い出した。果たして、歯科技工士になって、いまは銀歯でも作っているのかどうか。

しかし15年以上前のことである。もしかしたら、死んでいるかもな、とも思った。

学校帰り、黒夢やソフィアやグレイのCDを買ったお店の前を通りがかった。いまではクリーニング屋になっていたが。

あれはいったいなんという日々だったんだろうなあと、しみじみと思った。

歩いて、歩いて、歩いた。

昔、姉がバイトしていたサンデーサンというファミレスはCOCO'Sというファミリーレストランになっていて、しかし、ファミレスであることに変わりはなくて、だけどそこではもう姉は働いていなくて、なのに今はそのファミレスのすぐ近くで旦那と子供二人と分譲マンションに住んでいて、だけど15年かぐらいさかのぼれば確かにそこで姉はウェイトレスとして働いていていらっしゃいませだとかハンバーグ定食ですねだとかなんとか言っていたわけで、でもそのバイトは学校に内緒だったのでバレて停学になったりもしてて、ぼくはそんな一部始終を弟として眺めていて、と言ってもその頃ぼくは姉とまったくもって仲がよくなかったので、姉のことを不良でけしからんと思っていたし、というか姉も姉できもい弟だと思っていたろうし、まあどうでもいいのだけれど、このへんで、地球の、日本の、広島県の、このへんで、ぼくは生きていたんだよなあ、だって、こんなにもいろいろと覚えていて、忘れていなくて、思い出して、でも将来は痴呆になって忘れちゃうかもしれないし、しかも、そもそも記憶というのはあくまでも記憶であって、確かにそんなことがあったと覚えてはいるけれど、今ではもうそれを確かめるすべはないわけで、姉に聞いたとしても、サンデーサンでバイトなんかしていないと言われれば、ぼくの記憶違いだったのかもしれないなと思い直さないといけないのかもしれないし、ああもう、いろいろ、いろいろ、このへんで生きていたんだ、ぼくは、ぼくは、ぼくは。

歩いた。

家まで、あと30分程度の距離のところまできていた。

三度目のコンビニに寄った。ミックスサンドイッチと、トマトジュースを買った。

もちろん食べながら歩いた。

足がすこし痛くなってきていた。でも、歩いてよかったなあという気持ちのほうが、よほど、大きかった。

なにがどうよかったのかを他人に説明することは容易ではないが、よかった。

その日、その時、家に到着することは同時に終わりでもあって、家が近づくにつれて、さびしくなって、せつなくなって、そしてすこしだけ、ばかばかしくなった。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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