十年一昔と人はいう

最終更新: 2017/08/22

福岡にゆく。

いまは博多行きの新幹線の中で、得意気にiPadで書いている。

福岡に特に用事があるわけではない。しいて言えば旧交をあたために、というところであるが、実際はいつもの思いつきに過ぎない。

前回行ったのはキンジという友人の結婚式で、確か六年前くらいであった。

このキンジという男は、大学時代、樋口と三人で毎日のように会い、話し、飲み歩き、至らぬ行為の数々を共にした仲である。三人の中でもっとも頭がよろしくないのだが、しかしもっとも男前であり、同時にもっとも体育会系というか柔道の有段者であったので、彼にはボディガード的な役割および、よく女の子を世話してもらったなあと、しみじみと思い出す。って、しみじみ思い出すようことではないのだが。

それはともかく、六年前くらい、なんて記憶はあやふやだが、その時の彼女が誰だったかだけは妙にはっきりと覚えている。ので、あの子と付き合っていたのは確か六年前くらいだった、気がする、というどうしようもない記憶のたぐりかたで算出した六年前である。

六年前とか簡単に言うが、六年というのはとても長い。ぼくのこの六年間にあったことと言えば、クソッタレな行為を積み重ねて、ああ、歳とっちゃったな、くらいでしかないのだが、しかしキンジにとっては結婚生活が六年、一児の父となり、そしていまは二人目の誕生を控えているところだという。

そりゃそうだよな。だって六年もあったら、そんなこんなで人生は進むよね、そりゃそうだそりゃそうだと、なんだか自嘲的に思う。

うらやましい、というわけではない。ぼくも早くそのようになりたい、というわけでもない。人それぞれの人生があり、自分の選択の積み重ねの結果であるいま現在が、それぞれのいま現在があるだけである。

でも、なんとはないさびしさを感じる。虚しさでも悲しさでもない、さびしさ。

たぶんそれは、具体的に時間が流れたということを痛感するさびしさである。

もう二度とは戻らない日々。記憶の中ではいつも昨日のことのように鮮明だが、鮮明なのに、加速度的に遠くなってゆく日々。

戻りたいというわけでもない。仮に戻ったところで、また同じように儚く過ぎ去っていくだけだろう。

結局のところ、生きるということ自体が、さびしいことなのだと思う。日々、似たような一日が淡々と流れていっているだけなのに、そんなくそ面白くもない日々を三万日くらい過ごすと、なんの意味も意義も理由もなく、なんの説明も納得もなく、はいおしまいですさようならと無に帰る。帰らされる。

だから、時間の流れを否が応でも意識するようなことを見聞きすると、ふっと、どうしようもなくさびしくなる。

結婚だとか、出産だとか、 ああ、あいつもお父さんか、なんて思うと、肉感的な時間が妙に意識されて、思わず自分の肉体を、存在を、両の手でまさぐって、確かめてしまう。

わたしの時間と、あなたの時間と、わたしのいままでと、あなたのいままで、わたしのこれからと、あなたのこれからと、どこかでつながっているようで、しかし、実際それは単なる希望か願望に過ぎず、一切つながっていない、呆れるほどつながっていない。そうして人間は皆、誰しも一人きりで生まれ、一人きりで死んでいかねばならない。

時間が流れた。これからも止まらず流れてゆく。そしてじきに止まる。ただそれだけのことだ、けれど。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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