うなぎ、うなぎ、ぎぎぎ。

最終更新: 2017/08/22

とうとううなぎを食べた。

何やらクラスメイトが親戚にうなぎの白焼きをいただいたということで、いや、若干は先日ぼくがお店でうなぎを食べたことがないと愚痴っていたことに対する同情もあるのかもしれないが、とにかくはとうとううなぎとのご対面である。のが、本日の画像。

というかクラスメイトとか書くと思わずチェックメイトとか言いたくなってしまう、しかも頭の中にはチェスなどではなく"りぼん"で連載されていた怪盗ジャンヌダルクの絵柄しか浮かんでいないぼくである。そこへきて負の月曜日と猛烈な暑さのコンビネーションにより、ぼくはもう何も考えたくないし考えられない。

それはさておきこのうなぎ、タレなどもろもろが手作りらしいのである。クラスでママと呼ばれている(男性だが)Oさんの誕生日会にて、クラスでセレブと呼ばれている方の手作りうなぎひつまぶしを、みんなでいただいた。ママとかセレブとかわけのわからない呼称が多いが、実際はいたって普通でありいたって健全である。そしてうなぎ様は誠に結構なお味であった。しかも残ったひつまぶしは一人占めして心ゆくまでいただきましたので、この週末はうなぎづくしで大満足というかむしろ栄養過多が心配である。

そういえば外国のどこやらだったか、スローフードを推進しているどこかしらの国では、夕食に3〜4時間もかけるという。本当かどうかは知らないが、いやたぶん嘘か誇張だろう。きっとたまにはそういう日もありますよ程度な気もするのだが(だって実際のところ毎日夕食に3〜4時間も取られていたら、他のことが圧迫されすぎではないか。いくらのんびりゆっくりといっても最低限の家事だけでも残業なしの短時間勤務だとしてもそれなりに時間が必要だろう)。

ことの真偽はさておき、食事は会話があってこそのものであると思う。

いくら素晴らしいメシでも押し黙って食って旨いメシなどあろうはずがない。

そりゃあもちろん美味いメシのほうがよく、美味いメシを食う金だってたくさんあるに越したことはない。しかし、心は錦とかいう言葉、案外に負け犬の遠吠えでもヤセ我慢でもないように思う最近なのである。

頭も眼も鼻も口も耳も、すべては心のものだろうと思う。

ニーチェは言いました。この世に”事実”というものない。あるのはただ”解釈”である。

特別なものというのは案外に美味くもなく、楽しくもないものではないだろうか。珍しさからありがたがられはするが、結局、ふつうのことが一番幸福な気がする。

ふつうの話をして、ふつうに笑って、ふつうのごはんを食べて、ふつうに寝る。それさえあれば何よりではないか。 逆に言えば、それがかなわない人生など、生きる価値も意味もほとんど無いだろうと思う。

というか、最近学校で、結婚観というか女性観の話をしていたのだが、新宅さんは案外に保守的なのねという結論になった。

まあそれはそうだろうと思う。たとえば夫婦別姓とか、そういう主張をする女性が世に存在することはわかるし存在しても一向に構わないが、ぼくの妻としては要りません、と思う。

なんていうか、妻となる女性は普通が一番だと思う。変わったことや革新的なこと、いわゆるアヴァンギャルドなことはぼくが勝手に芸術でやりますので、家庭はまったくもって普通で結構です。

そのような主張で自分自身に嘘偽り疑念疑問はまったく持っていないのだが、ただ唯一の懸念としては、ぼくのアヴァンギャルドな収入により、家庭もアヴァンギャルドに、もしくは革命が起きてしまわないかということだけである。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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